価格の理論は日本ではもはや通用しなくなった
自由競争が働かず、価格の機能がバカになっている
物価と労賃はどこの国でもデリケートな関係におかれている。物価があがれば、労賃をあげる要求が起る。少なくともその口実にはなる。しかしせっかく労賃があがっても、物価がまたあがったのでは何にもならない。生活が苦しくなるのを多少、緩和してもらったというだけのことにすぎない。景気がよくなり、産業界が活気づくと、物価もあがるが、それを上回って労賃があがる。
といって、労賃はあらかじめ決められていて、青物市場の野菜の値段のように、その日の入荷の多い少ないによって値段の変動するものではないが、労働力に対する産業界の需要、すなわち「求人」がふえると、労賃は上昇の傾向を示すようになる。とくに他社を出し抜いてでもよい人材を集めたいと考える会社が初任給をあげる。初任給をあげれば、前から働いている者の待遇をそれ以上に調整しなければならなくなる。年功序列給のもとでは、会社内の給与は自然にあがるようになり、製品のコストの中で人件費の占めるウエイトはますます大きくなる。豊かな社会とは、労賃の値上がりが物価の上昇をカバーしておつりのくる状態をいう。日本人が金持ちになったのも、この条件にあてはまる労賃の上昇が起ったからであるが、労働組合の力が強すぎて生産のふえた分をオーバーして労賃があがったりすると、労賃の上昇が物価の上昇を刺戟して、実質、労賃があがらなかったのと同じ結果になってしまう。ただ、一口に物価といっても、一次産業の物価もあれば、二次産業の価格もある。三次産業の値段の安い高いもむろんある。日本人が金持ちになったのは、他の国々に比べて良質で安価な工業製品を生産するようになったからであるが、自動車にしても、テレビやビデオにしても、またコピーやファックスやコンピュータの数にしても、日本製品は、日本の労賃の値上がりにもかかわらず、国際競争に耐えられるだけの生産性を発揮してきた。
|