省エネ化とオートメ化で石油ショックを乗り切ることで日本は強くなった
一九七○年代、石油ショック直後の日本のかなりの企業は、そのまま放置すれば経営が成り立たなくなって、工場閉鎖をするか、それとも海外に工場を移して眠れる労働資源を新しく開発するか、二つに一つの選択を迫られていた。有力な企業は海外に新しい工場をつくり始めた。中でも労働集約的な業種、たとえば、綿紡、化繊、その加工業、家電、力メラ、時計などは率先して海外に生産拠点を求めた。その際、日本の企業が好んで選んだのは、日本の旧植民地であった韓国と台湾、それからイギリスの統治下にある香港と、かつてイギリスの旧植民地であったシンガポールといった地域であった。これらの地域がのちにNIEsと呼ばれる新興工業地域となり、日本と肩を並べる貿易黒字国になったのは、日本の動きと密接な関係がある。工業の発展のためにはいわゆるインフラへの投資が整っていることが条件であるが、日本の旧植民地は日本とほとんど同じ条件を備えていたし、香港とシンガポールは地図の上では小さなスポットにすぎないが、交通の要所にあたり、そこに生産拠点をつくれば、周辺の市場を開拓することが可能な条件をそれぞれ備えていたのである。
この時期の日本人は、アメリカやヨーロッパに日本製品を売り込むことには熱心であったが、生産拠点をこれらの先進国に移すことなどほとんど念頭になかった。そんなことは思いもよらないことであった。自分たちより労賃の安い国に工場を移し、労働者がいくらでも集まるところで人を集め、訓練を施して、日本より安いコストで、日本と同じグレードのものをつくることができれば、と考えるのがやっとだったのである。
日本の企業は、日本国内では自分たちだけで事業を営むことができたが、海外に出ると、国によっては現地人と合弁でなければ外国企業の進出を認めない規定もあったし、そういうややこしい規定がなくとも、水先案内人の必要を感ずる企業が多かったので、それぞれの土地の人々とパートナーシップを組むケースが多かった。あとになって考えてみると、日本人とパートナーになった現地人は、自動車だろうと、家庭電器だろうと、現地企業として成功すると、少なくとも持ち株分だけ利益の配分にあずかったので、信じられないくらい金持ちになった。
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