もし本当にそのとおりであったとしたら、戦争をしたがる日本人はいなかったはずだし、したがって戦争なんか起らなかったに違いない。それが実際には世界中をまきこむ大戦争になって幾百万人という犠牲者を出したのだから、一人一人の日本人が半分以上は本気になって、熱に浮かされたように戦争力ゼにあおられて戦う気分になっていたことがわかる。何せ日本人は白分たちの国境内で戦争したわけではないから、戦わなければ自分たちが殺されることはなかった。自分たちから出かけて行って戦争を仕掛けた側であることを忘れてはならないのである。
それでも戦争が終ってみると、戦争を仕掛けたことはきれいさっばり忘れて、多くの日本のインテリは昔から自分たちは平和の天使だったような顔をする。次にアメリカ人が自分たちよりも能力のある国民であることがわかると、鬼畜米英と叫んだことを忘れて、アメリカ人に心酔するようになる。その場合のアメリカ人の能力とは、産業的、文化的な先進性のことである。政治制度も教育制度もすべてアメリカがモデルである。なかでもアメリカの物量の基本となった工業は最も学ぶに値するさしあたりの目標であった。
たまたま狭い国の中に、9000万人の余剰人口を抱え込んだのでは工業化以外に国民を食べさせていく方法がなかった。その代り工業化をするためなら、さしあたりの目標も、学ぶべき師もすぐ目の前にあった。日本人はアメリカ人を師と仰いで、アメリカの工業や、続いてアメリカの流通業やサービス業をそっくりそのまま取り入れることに全力を尽くせばよかった。
先輩の真似をすることは上達をするための早道である。美術界の巨匠になった人々でも、青春のある時期は、ルーブル美術館に行って古い名画のコピーをしている。それと同じように、先輩国の工業に追いつこうと思えば、その国の製品のコピーから始めるのが一番手っ取り早い方法である。
日本人はアメリカの兵士がポケットに入るサイズのトランジスタ・ラジオを持って歩いているのを見ると、何とかしてそれを手に入れ、バラバラに解体してその構造を研究した。真空管の代用をするトランジス夕の存在を知ると、そのパテントがどこの会社のものであるかすぐに調べあげ、アメリカまで飛んで行って、その実施権を譲ってもらった。またそうやって自社でつくりあげた商品を再びアメリカにまで売りに出かけて行った。
日本人はその商品がどこの国で、どんなメー力ーによってつくられたかに注目するが、アメリカ人は、そんなことには一切こだわらず、物のできがよいかどうか、値段がいくらになるものなのか、またアメリカ国内で売り出した場合、はたして売れるかどうか、といったことには細心の注意を払う。もしそれがお金をもたらしてくれるものであれば、たとえ日本の無名のメーカーの手になるものであっても、いきなり10万個といった数量の注文を出し、OEMでつくらせて自社ブランドで売り出すことを躊躇したりはしないのである。

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