日本人のつくる安物はどこに売れたのか
日本人がつくる物のなかで、すぐにもアメリカで通用するものがいくつかあった。繊維や雑貨にはすでに戦前から輸出の実績があった。たまたまアメリカは高所得水準の国になっており、軽工業から足を抜く段階に来ていたから、低賃金国のほうが向いていると思われる分野は日本からの輸入に切り換えることにさしたる抵抗はなかった。最近のアメリカは自由貿易の旗手の観があり、門戸の開放は何も日本人にだけ向けられたものではなかったが、最もよくアメリカ市場の要求を充たしたのは日本人であったといってよいだろう。
日本の繊維製品および縫製加工品はたちまちアメリカの同業者を圧倒し、やがて日米間の政治問題にまでなるようになった。しかし、そういう方向に進んだのは、何も繊維製品や雑貨だけではない。日本人は、さきに述べたように、軍需産業の先導で、工業技術の面ですでにかなりの水準に達していたので、ちょっとした金属加工の分野なら、アメリカ人の要望にこたえる体制ができていた。日本人はまだ自由に外国に出かけることができなかったが、外国人は占領軍司令部の許可さえもらえば、自由に日本に入国することができた。バイヤーと称するユダヤ人たちは、国際間の格差を利用することにはさとい人々であったから、アメリカ人にもっとも人気のあるミシンやタイプライターやカメラなどのサンプルを日本に持ち込んできて、
「これを、いくらでつくれますか。この値段でつくれたら、月に一万台の発注をしましょう」
と、アメリカ値段の半分とか、三分の一といった安値で商談を持ち込んだ。それはアメリカ人にとっては、常識を逸する安値であったが、何とかしてメシのタネにあずかりたいともがいていた日本人にとっては、真剣に取り組むに値するグッド・ニュースであった。
日本人はそのために全精力を注ぎ込んだ。原料の大半は外国から輸入するものであり、原材料費は決して安いものではなかったが、日本における労賃はまだ安かったし、加工費が大きな割合を占める製品ならコストを下げる工夫が可能であった。ミシンやカメラから始まって、日本人はたちまち値段の安い耐久消費財を何でもつくれるようになり、それを世界中に売りまくるようになった。日本人が売りにいったのではなくて、安い日本製品を売ればお金になることがわかると、蟻が砂糖のありかをかぎつけるように利にさとい商人たちが日本へ押しかけて来たのである。 |