考えてみると、講演が二十回あって、原稿の連載が十五本あるのは、一見、いかにも大へんそうに見えるが、もし講演がなくて連載だけやれと言われたら、できないのではないかと思う。まず東京にいると、朝から晩までお客があって、原稿を書くひまがない。原稿を書いている間も、次々と電話がかかって応対にいとまがない。
それがどうして十五本も原稿が書けるかというと、講演に行く途中の時間を、新幹線や飛行機に拘束されて、そのあいだ、どうしても一人になっているので、かえって時間があくのである。講演会のあとはパーティや夜のおつきあいがあるから仕事のできる見込みはないが、ホテルの朝は一人でいることが多いから、次の講演がはじまるまで、もしくは、次の乗り物に乗っている間、ゆっくり仕事をすることができる。
つまり、講演があればあるだけ、執筆の時間が確保できるが、講演がなくなったら、逆に執筆の時間もなくなってしまう。拘束されるということが、新しい仕事のできる時間を生み出してくれるのである。
私は『史記』という本を手にするたびに、もし司馬遷という人が宮刑にあい、牢屋につながれなかったら、恐らくあの不朽の名作は生まれなかったのではないかと痛感する。牢屋につながれて、ほかのことをすることを許されなかったからこそ、司馬遷はじっくりと腰をおちつけて、歴史と取り組むことができたのである。
そのことを考えると、自由を失うことくらいそんなに恐ろしいことではない。ペンも紙も読書のチャンスすらも全部とりあげられたら、もちろん、お手上げだけれども、拘束された時間があれば、その分だけたっぷり使える時間をもらったことになるのである。
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