もう少し若い時は、私も自分でずっと車を運転した。運転しながら、物を考えるのは危険だということもあって、最近は運転手に任せることが多くなってしまったが、車に乗っている時間があまりに長くなって、運転している時間が惜しくなってきたということもある。
自分で車を運転していると、ほかのことに気をとられているわけにいかない。せいぜいラジオか、テープをきいているくらいのことで、カーステレオやテープ講座が商売になるようになったのも、もとを言えば、運転していると、「空いているのは耳くらいなもの」だからである。
もっとたくさん時間を持っていた頃は、耳学問でもよかったが、耳学問は、「百聞は一見に如かず」という諺もあるように、向こうから持ち込まれるもので、こちらから出かけて行って仕入れてくるものではない。
また自分で掘り出してくるものではなくて、選択され、加工され、他人の目をくぐり抜けてから、こちらにもたらされるものであるから、二番煎じみたいなところがある。とりわけラジオからきこえてくるものは、何百万人という人の耳を想定した内容であるから、こちらの要求とはあまりうまくかみあわない。したがって、車の中にとじ込められている間に、流れ去る時間をうまく活用しようと思っても、自ずから限りがあって、1.読書をする、2.原稿を書く、3.物を考える、4.人と話をする、というくらいのことにしぼられてしまう。
よく政治家の車中談というのが新聞などにのったりするが、忙しい人は車の中くらいしか使える時間がない。私も、「時間がないので」とお断りすると、「では自動車の中で」とか、「では新幹線の次の駅まで」とか言って、車中に乗り込まれて、談話をとられることがある。作曲家の故古賀政男さんは、まだ自家用車もロクに普及していなかった頃から、リンカーンの高級車に乗っていたが、「自動車の中が私の仕事場なんですよ」と、言い訳をしていた。五線の中に、オタマジャクシを入れていく作業くらいなら、車の中の方がかえってよいかもしれない。人が偉くなったかどうかは車の中も利用されているかどうかを見れば、大体の見当がつく。
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