頭角を現わすには比類なき努カを
一方、事業はそもそも同時代の人たちに何らかの利益をもたらすものでなければ、成り立たないものであるから、時代の読みも必要だし、また人の使い方から資金ぐりに至るまで、オーケストラの指揮者のような気の配り方が要求される。
その場合、多くの人々に利益をもたらすといっても、一般大衆の利益につながるとは限らず、特定の限られた、それもグループ内の利益だけを目的とした、明らかに公益とは相容れない事業もたくさんある。たとえばオブラートか糖衣に包まれた形になっているが、賭け事に属する競輪、競艇とか、他人の困難につけ込んだところのあるサラリーローンとか、高利貸しとか、さらには暴力団とか、手形のサルベージ屋とか、もっと手っ取り早いのになると、スリやドロボウの集団もある。悪いことをやる奴でも、悪いことをやる奴なりの道理とルールがあって、それを守らなければ、部下もできないし、支持者も生まれないのである。
荘子を読むと、盗跖(とうせき)という有名な盗賊の親分の話が出てくる。
あるとき、盗跖の手下が親分の跖に、
「泥棒にも道がありますか?」
ときいた。跖が答えていうに、
「行くところ、道がないところがあるものか。泥棒が庫の中に入って、あれこれ想像をたくましくするのは聖だ。盗みに入るためには勇気が必要だ。ほかの者に遅れて出るのは義だ。情勢判断をして可否をきめるのは知だ。泥棒した財宝を公平に分配するのは仁だ。この五つのものが備わらないで、大盗になれた者はまだ一人もいない」
と。泥棒のような、他人に損害をあたえる商売でも、全知全能を傾けなければ、頭角を現わすことができないのだから、事業を成功させることが壮大な芸術でないわけがないのである。
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