あとがき (※これは1994年に書かれた文章です)
自分の過去について語るのはなんとも気のすすまないことである。というのも、いつも前を向いて生活をしており、まだ見ぬ未来に対して予測をしたり、新しい事業を考えたり、新しいライフ・スタイルを展開したりすることに言い知れぬ喜びを感じて生きてきたからである。
それに比べると、過去はもう終わってしまったことである。終わってしまったことに気をとられてくよくよしていると、人生万事に消極的になって身動きができなくなってしまう。ケ小平は人から揮毫を頼まれると、好んで「楽観」と書くそうだが、その心境が私には痛いほどよくわかる。山積する難問を前にしてそれをはねかえそうと思えば、ペシミズムではとても生きていけないだろう。人とつきあう場合でも、弱気の人とばかり一緒になっていると、自分まで元気がなくなってしまう。といって向う見ずばかりに包囲されていると、失敗した時の対策がなおざりになってしまう。だから友達を選ぶ場合も、弱気は二人くらいにしてあとの八人は強気を相手に暮らすのがいいように思う。
そういう私が自分の「青春の記録」を書くことになったのは九三年、中央公論杜から『中国人と日本人』を出版するにあたって、自分の出生の秘密に言及したからである。わが家においては別に秘密でもなんでもないことだが、「密入国者の手記」からはじまって作家として世に出るにあたって、私は自分の母親が日本人であることを伏せておいた。事実、私は台湾人として育ち、台湾人としての差別待遇や迫害を一身に受けてオトナになった。その声を代弁する文章も書いてきた。人によっては、私が出生の秘密を伏せたり発表したりしたのは自分のご都合主義によるものだと指摘した人もあるが、それは事実に反する。日本では、日本人でないほうが文壇に地位を築くのは難しいと思う。難しいほうを選んで、私は四十年間、筆一本で生きる道を歩んできたのである。
いまとなっては、日本国籍を持ち、日本人の一人となっているのだから、どうでもよいことだが、私の出生の秘密と私の文章とのかかわりあいにこだわった中央公論杜会長嶋中鵬二さんの慫慂もだしがたく、『中央公論』本誌に「わが青春の台湾」、続けて「わが青春の香港」を連載させていただいた。決して他人様に自慢できるような人生ではないのだが、台湾人の家に生まれたというだけのことで、私の人生は同年代の学友たちとこんなにも違ったものになったことをおわかりいただけたら幸いである。
なお本書がこういう形で陽の目を見ることについては、嶋中鵬二会長、『中央公論』編集長官一穂さん、取材編集部部長岡田雄次さん、同次長江刺實さん、文芸部部長平林敏男さん、開発局第二編集部部長横山恵一さん、同部並木光晴さんのご尽力をいただいた。改めてここに感謝の意を表したい。
一九九四年六月
マレーシア・ランカウイにて
邱 永漢
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