ちょうどその頃、娘の首の痣がかなり悪化していた。もうこれ以上、幼児にペニシリンの注射はできないと言われ、大病院の放射線科にもかよった。しかし、友人の医者が私にアドバイスしたところによると、「香港の医者は金儲けには熱心だけれど、痣には興味はないから、本当は日本に行って治療したほうがいいんじゃないか」ということだった。
私は東京の姉に医者を探してくれるように手紙を書いた。姉があちこちツテを辿って、元の海軍病院、いまの第二国立病院に放射線科があって、そこの山下先生が痣の専門医であることをきき出し、友人の医者を通じてお願いしたところ、少くとも一年くらいはかかると思うけれど、そのつもりで東京に連れて来られたら治療してあげましょうと承知してくれた旨、返事があった。
娘はまだ生まれて一年三ヵ月たったばかりであった。このまま放置しておいて傷口が頸動脈にまで達したらたいへんなことになる。子供のうちに癒しておかないと、年頃になってからでは親が恨まれることになると真剣になって心配をした。
娘の痣の治療が日本へ戻る第一の目的であった。しかし、もしかしたら才能があるかもしれんぞという一言に刺激されて、小説家になれるかもしれんという自惚れに支えられた第二の目的もあった。私は日本総領事館に出かけて行って、日本に戻りたいが、在留許可をもらえないかときいた。私が東大出であることを知ると、副領事はとても鄭重に扱ってくれた。また私が自分は日本の会杜の役員にも名を連ねていると言って、義兄のチューインガムの会社の登記謄本を見せると、これがあれば一年のビザをさしあげられます、と言って私のアフィダビットの上にハンコを押してくれた。
こうして私は六年間住みなれた香港を去ることになった。住んでいた家を人に貸し、日本に行ってから小説家として生計がたてられるようになるまでは、その家賃で暮らすつもりだった。一人で生命カラガラ逃げて来たのに、香港を離れる時は、娘と三人になっていた。家内の父や母や兄弟に送られて、私たちは九龍の碼頭(マアタウ)からフランス郵船のベトナム号に乗り込んだ。一九五四年四月、日本ではちょうど桜の花の散る頃だった。
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