政治運動の挫折と旧友王育徳君の来訪

しかし、そんな宝くじを引いて当たったような好連はそう長く続くものではない。儲かる商売はどんな商売だろうと、必ず競争相手が現われて、あッという間に消えてなくなってしまうものだからである。
しかし、そこまで辿りつくずっと前のところで、「アメリカは蒋介石を台湾に入れないだろう」という私たちの政治的な賭けはものの見事に破れてしまった。丘念台さんが私たちを訪ねてきたのは、まさにそういう駆け引きの只中のことであったが、蒋介石の代わりに国民党政府の代理総統になった李崇仁将軍が中共との和平交渉に失敗すると、蒋介石は再び対中共作戦の最高指揮者に返り咲き、その年の十二月四日には蒋介石自身が飛行機で台中に入り、国民党政府の台北遷都が宣言された。結局、アメリカは抗日戦争中、盟友だった蒋介石をドタン場になって見捨てることができなかったのである。「台湾で国民投票を行い、その将来を決めるべきである」という私たちの悲願はこれでおしまいになった。私にとってもそれは大きなショックであったが、運動の先頭に立っていた廖博土にとっては、おそらくもっと大きな打撃であったに違いない。本当は、ここで潔く別れの杯でも交わして、親分子分それぞれ身の振り方を考えた方が賢かったかも知れない。しかし、事の発端が蒋介石の台湾に派遣してきた陳儀の暴政に対する生命懸けの抵抗であったから、ここで解散というわけにはいかなかった。国民党政府が台湾に移ると、台湾の治安を維持するために取締りはいっそう強化され、ちょっとでも不穏の言動があると、共産党の帽子をかぶせられ、軍事法廷で死刑とか流島の刑に処される人がふえた。蒋介石の台湾入りが逆に反対運動を正当化することになったのである。
だから取締りの強化によって、台湾にいられなくなった気骨のある青年たちが次々と台湾から脱出する現象が見られるようになった。その中には私の台北高等学校時代のクラスメィトで、のちに明治大学で文学博士の称号をとり、同校の中国文学教授として一生を終えた王育徳君もまじっていた。

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