私はとびあがって喜んだ。少なくともこれで、危険を冒さずに金儲けのできる新しいルートがひらかれたことは確かだった。 しかし、それを大々的に展開したくとも私にはそれだけの資本がなかったし、
義兄の臼田金太郎氏(左)と
東京で物を売って回収したお金を香港まで持って帰る方法もわからなかった。とりあえず手元にあるお金の中から当座に必要なお金を残して、あとはすべて郵便小包にして日本に送った。それだけでは回転がおそかったので、廖博士にも、また若い廖兄弟にも、出資してくれないかと誘いをかけた。
その時、廖さんは確か千ドル出してくれた。廖兄弟はいくら出してくれたか忘れたが、学資として銀行に預けていたお金の中からの出資だから、そう大したお金ではなかった。のちに、私は蔡海童さんのやり方に見習って、出資者半分、経営者半分の比率で分配し、廖文毅さんには千七百ドルにして返し、廖兄弟にも同じ比率で配当金を払ったが、若いほうの廖兄弟は分配が少ないと不満を私にぶちまけて出資金を途中で引き揚げてしまった。というのも、私のやっているのをみて、早速にも私の真似をした人が同じ屋根の下にいたからである。その人は廖博士の姪にあたる人だったが、自分のほうに出資してくれたらもっと高率の配当をすると誘いをかけたらしい。
それはもう少しあとになってからの出来事であるが、とりあえず郵便小包でも商売になることがわかったので、私は資金の続く限り、また短い期間に回転がきくように、全力をあげた。お金を送り返してもらう方法のなかった時は、手紙の中に米ドルを詰めて航空便で送ってもらうようなこともあった。しかし、「蛇の道はヘビ」で、そのうちにヤミで送金のできる窓口があることを教えられ、向うでお金を支払うと、香港でもらえるようになったので、送金の問題は一応解決した。
こうなると、一包一万円の郵便小包をつくって二万円で売る商売もバカにならない。はじめの間は資金が少なかったから、月に十個送るのがやっとだったが、十個が二十個になり、二十個が四十個になり、四十個が八十個になった。ただし、もともとが零細なベンチャー・ビジネスだから、月に百個が限界だった。その数量も隣り近所の人で片のつくような量を遥かに超えるようになったので、義兄がそれ専門の人を紹介してくれるようになり、私は私で大学時代の友人にまで頼んで郵便小包の受取人になってもらった。
月に小包を百個送って百万円利益があがるということは、いま坪当り一億円もしている赤坂や新宿の土地がまだ千円で買えた時代だったから、毎月、東京の土地が千坪も買えるお金を稼いだことになる。明日のメシをどうしようと夜も寝ないで考えていた亡命青年が、一年あまりで新しいチャンスをつかみ、それから二年でそうした身分になったのだから、人間の運命なんてわからないものである。
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