銀行員として博士論文に挑戦

そのまま新竹へ出て台北に向う夜汽車に乗り込んだ。やっと座席を見つけるとドッと疲れが出て、そのままぐっすりねむり込んでしまった。どうも横になる時に靴を脱いだらしい。台北駅に着く前に、目をさまして靴を履こうとしたら、靴がどこにも見当たらない。寝ている間に、靴を盗まれてしまったのである。
あとでその話を母親にしたら、「足元がそんな調子では、先へ行けるわけがありませんよ」ときびしいことを言われてしまった。この一件で、友人の兄貴や船主が私を瞞したとは、今も私は思っていない。砂糖を積み込む現場も、船が浅瀬に乗り上げる現場もこの目で見てきたのだから。
しかし、これでせっかくの紀伊国屋文左衛門の夢もあえなく破れてしまった。母親のへそくりもすっかりパーにしてしまったし、無一文で泣き言を並べても誰も同情してくれたりしない。やむを得ず、私は東大の先輩にあたる林益謙さんのところに相談に行った。林さんは一高、東大の秀才コースを歩んだ台湾人仲間のホープで、総督府時代に台湾人としてはじめて金融課長に任命されて有名になった。大東亜戦争になってからインドネシアに施政官として派遣されたこともある。
しかし、日本時代に日本人から重用されただけに、終戦後は、新しい支配者になった国民政府から無視され、不遇をかこっていた。ただ何といっても、台湾人の中の出世頭であり、頭脳明蜥かつ行政手腕も高く買われていたから、あちこちから□がかかっていた。
たまたま大陸から帰ってきた半山仔(ボアスウア)の一人に劉啓光という人がいた。この人は日本時代に官憲に追われて、漁船の冷蔵室の中にかくれて大陸まで逃げた前歴があり、たいした学歴はなかったが、頭の回転もよく、時の政府と人脈もつながっていたので、華南銀行という日本人から接収した商業銀行の董事長に任命されていた。この人が自分の仕事に箔をつけることを思い立ち、銀行内に研究室を新設すべく、林益謙に白羽の矢を立てた。かつての台湾人の出世頭が一商業銀行の研究室主任では、上と下がひっくりかえったようた人事だが、これもご時世であろう。私が訪ねて行くと林さんは、「君も来いよ」とすぐ私を誘ってくれた。ちょうど路頭に迷う寸前だったので、私は履歴書を書いて林さんに渡した。林さんは私を連れて董事長室に行くと、私を劉啓光氏に引き合わせた。はじめて見る銀行のボスは、とても目の鋭い人で、私は京劇に出てくる『三国志』の中の曹操を連想した。もちろん、だから彼は奸臣だと言っているわけではないが、それが私の受けた第一印象だった。実際にはかなり世話好きな人で、その人柄を褒める人に私は何回か出会ったことがある。
おかげで、私は台湾から亡命するまでの一年間を、前半は華南銀行研究員、後半は調査科長として糊口をしのがせてもらうことができた。研究員といっても、自分で仕事をつくり出す以外にやることは何もなかった。私にはまだ学者になりたいという尾骨みたいなものが残っていたから、この機会に東大経済学部に提出する博士論文を書きたいと思っていた。紀伊国屋文左衛門が吹っとんでしまった途端にジョン・メイナード・ケインズ気取りではあまりにも身勝手すぎるが、そういう人間を養うことは銀行にとってもいい迷惑であろう。しかし、私はめげなかった。私は林益謙さんにあらかじめ諒解を得て、銀行の社内紙に寄稿する以外は、研究室の机に向かって博士論文の執筆を続け、それを研究室のタイピストに謄写紙を使って五部ずつ打ってもらった。博士論文は二部必要だときかされていたし、当時はまだコピー機もできていなかったから、タイプを使ってその目的が達せられたのは一(いつ)に銀行のおかげと言ってよかった。
私の博士論文は「生産力均衡の理論」と題した分厚いもので、五部のうち一部を研究室に残し、のちに香港に亡命してから、人に持参してきてもらった。その主旨は、ケインズが貯蓄と投資の均衡を主張したのに対して、金融操作だけでは景気の調整には不充分で、年々消費のふえる分と、年々生産のふえる分の間に、しかるべきバランスをとるべきだ、そのためには金融だけでなく、公共投資も民間投資も含めた総合的な対策が必要だ、という内容のものであった。のちに香港に住んでたびたび東京へ戻るようになってから、私はこの論文を恩師である北山冨久二郎先生のところへ持ち込んだ。しかし、その時、北山先生はすでに学習院大学に移籍したあとだったし、東大経済学部はマルクス経済学の総本山みたいなところになっていたから、仮に提出したとしても、とても受けつけてもらえそうになかった。修正ケインズ理論みたいな論文では、教授会を通らないこともわかっていた。だから先生に、「君のような、"風と共に去りぬ"のレット・バトラー役をやるような男に博士なんか似合わないよ。君は肩書なんて要らない人間なんだ」
と体よくかわされてしまった。私をこれ以上、失望させたくないという先生の配慮もあってのことだと思うが、戦後のあのマルクス主義全盛時代に私が学者の仲間に入れてもらえなかったとしても、なんら異とするに足らないことである。
この博土論文にはまだ後日譚がある。あれから四十何年たって、ある日、私は国民政府の新しい総統・李登輝さんを総統官邸に訪ねた。話の途中で突然、李総統が私の「生産力均衡の理論」のことを持ち出した。タイトルまで正確におっしゃったので、どうしてかと思ったら、私が去ったあと、華南銀行の研究室で私の博士論文を読んでくれたのだそうである。思わぬところにファンがあるものだととてもびっくりした。なお李さんは台北高校時代は私の一級下だったが、京都大学を卒業してから台湾へ帰り、のちコーネル大学で博士号をとって再び台湾へ帰り、台湾大学の農学都で教鞭をとっていたこともある。同年代の苦しみをともに味わった仲間の一人である。
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