大インフレの中で父と財産論争

台南市は米軍の空襲を次々と受け、かなり被害をこうむっていた。私が育った家も、二階の屋根に焼夷弾がおち、屋根の一部が壊れたが、家の中に火が入らなかったので、かろうじて焼け残った。育ての母はすでに他界していなかったが、父も母も無事だった。しかし、戦争中の統制経済で、青物市場の仕事も、軍隊に食糧を納入する仕事も、すべて市役所に召し上げられていたので、父親は組合からわずかなサラリーをもらう哀れな役員の一人に転落しており、手元に残ったお金で売り食いをしていた。
台南の町を歩くと、駅前や停仔脚(テンアカア・家の下を通るアーケード)の下で、引き揚げる日本人たちが家財道具や本などを道端に並べて売っていた。その中には、私の欲しい本がたくさんあった。
しかし、私にはお金がなかった。私が本を買いたいから、お金をくれないかと父親に言うと、父親は頭をふって、
「隣りの老讃(ラオツァン)を見なさい。お前と同じ年で、公学校しか出ていないけれど、神戸から引き揚げてくる時は、トランクに何杯も、薬品やら薬材を持って帰ってきた。それを売ったお金で家を買ったともっぱらの噂だ。それに比べて、お前は東大なんて名前ばかり立派な大学を卒業しているが、お金儲けについてはからっきしダメじゃないか。学問なんて何の役にも立たんもんだな」
と小言を食ってしまった。
この時ばかりはかなりこたえた。学問はお金のためにあるものじゃないと言いたかったが、中国人の社会ではそんなセリフは通用しない。学問もお金を儲けるためにあると思っている人が多いし、何も学問を表に出さなくとも、私が隣家の息子より理財の点で機転がきかないことは誰の目にも明らかだった。
父は私たちきょうだいのうち、上の四人を同時に東京や台北に勉強に行かせたくらいだから、小さな町の商人としては金儲けのうまいほうだった。しかし、それは物を安く仕入れてきて高く売る商人の才能であって、経済全体がどう動いているのか、またインフレのさなかで財産を保持するためにはどうしたらよいのかといった知識を持ち合わせているわけではなかった。借金するな、株をやるな、バクチを打つな、というのが商人としての父のモットーだった。自分でちゃんとその戒めを守ったが、頼まれると人によくお金を貸した。きょうだいや親戚には無利息でお金を貸したが、同じ商人仲間や近所の人だと、ちゃんと利息をとった。
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