台湾独立に傾く 四、五ヵ月で国民政府に怨嗟の声

昭和二十一年二月、敗戦によって台湾から引き揚げる日本人兵士を乗せるために横須賀から船が出た。その船に私と妹は日本に引き揚げる日本兵とは逆のコースに乗って台湾へ帰った。その時の模様を私は、「濁水渓」という直木賞の侯補作になったが落選の憂き目を見た作品の中で、次のように描写している。

以三民主義建設新台湾
と、基隆港の岸壁の倉庫に一坪に一字ぐらいの大きさで書かれている。港外に隔離された貨物船の甲板で、私は一日じゅうこの黒いペンキのスローガンを眺めていた。日が暮れると、文字は暗闇の中に消え去り、倉庫には明々と電燈がともる。われわれの船が到着すれば、入れ替りに日本内地へ送還される日本軍の兵士たちがそこへ集中されているのである。
はじめて故郷の海や山を見た時は、「鳴呼!遂に遂に帰ったのだ!」と胸の底から湧きあがる感激を覚えたが、船はそのまま港外でストップを食ってしまった。船上には私をも含めて約二千名の台湾人が乗っている。大部分は戦時中海軍に徴用されて神奈川県下の高座で働いていた十五歳から二十歳の少年工員で占められ、三千トンの老朽貨物船はこれらの人間貨物で足の踏み場もないほど混雑している。皆が仰向けに寝ると、何人かはゴザからはみ出てしまうので、刺身のように体と体を重ね合わさなければならない。昼間はそうでもないが、夜になると天井から雫がおちてくる。横須賀から出帆した第一夜には甲板から水が漏れるのだと思ったが、じつは人間の吐く息が冷たい鉄板にあたって液化するのだとまもなく気づいた。排気設備が悪いので、船艙はむっとするように空気が濁っている。虱が猛烈な勢いで繁殖しはじめる。この不衛生な環境のなかで、横須賀を出て三日目、遂に船中に天然痘患者が発生してしまった。のろのろと走る老朽船は方向を変えて佐世保へ寄港し、陸からワクチンの補給を受けると、船客に一人のこらず種痘を施した。それから六日間もかかって太平洋を南へ南へと進んだ船は、やっと基隆沖へ辿りついたのである。

以上のように、台湾へ辿りついた第一歩からして思うに任せなかった。天然痘の伝染の有無を確かめるために、船は基隆沖に八日間も隔離された。台湾の人たちはいずれも生まれると間もなく種痘をしているから、天然痘のうつる心配はなかったが、その代わりに虱が湧きに湧いた。虱退治のためにDDTの白い粉を頭から吹っかけられた。のちにDDTは人畜に有害なことが判明して使用を禁じられたが、あの頃は殺虫に最も効果のある新しい薬剤だった。おかげで虱を身につけて上陸することだけはなんとか免れた。
東京を出発して二週間すぎてからようやく上陸が許された。しかし、税関を出て、一歩シャバに踏み込むと、早くも想像を絶することが起こっていることを知らされた。まず最初に耳にしたのは、蒋介石の国民政府が送り込んできた役人のデタラメと、威信のない軍隊に対する憎悪の声であった。台湾の人たちは、日本の植民政策に不満と反感を抱いていたので、日本が戦争に敗れて無条件降伏をした時、解放者として蒋介石に大きな望みを託した。しかし、基隆港に上陸してきた国民党の軍隊を見ると、青い綿入れを着て、銃の代わりに唐傘を持っていた。軍靴どころか、木綿の靴を履いた者も少なくなく、鍋や七輸を竹の籠の中に入れて、裸足のまま天秤捧で担いでえっさえっさと進軍している。日本軍を打ち負かした精鋭部隊を期待していた民衆は、見ているのが恥ずかしくなり、早々に退散してしまった。国民党の威信はこれで一挙に地に堕ちてしまったのである。
それだけならまだよかったが、行政長官陳儀に率いられてきた役人たちの貪汚舞弊(タムウブウペイ・汚職)が公然と天下に罷り通るようになった。たとえば、日本人が提出した財産目録の中に「金槌」があるのを見ると、すぐ目録から消すように命令し、金槌を持って来させたら、黄金の槌ではなくて、ただの鉄槌だったという笑い話もある。また船便がなかったために、学校の雨天体操場を借りて天井まで積み上げてあった砂糖のストックは、一斤が野菜の一斤よりも安いという奇現象を呈してきた。大陸からきた役人たちは片っぱしからそういうストックを徴収し、上海に運ばせて稼いだお金を自分のポケットに入れていた。
瑞芳の金山を接収にきた役人は、モーターの中に溜った金粉欲しさにモーターをこわさせたし、ビール会社の接収にきた役人は、原料のホップを売りとばして着服し、ビールの生産が支障をきたしても素知らぬ顔をした。親分の陳儀は、台湾総督府の秘密の印刷工場で昼夜わかたず、おびただしい紙幣の印刷をさせ、そのお金で財政を賄ったので、生産が回復するどころか、のちに四万分の一に切り下げたほどの大インフレが台湾全島を襲うことになった。
国民政府の軍隊と役人が台湾に乗り込んできてから、まだ四、五ヵ月しかたっていなかったが、台湾中どこを歩いても怨嗟の声に充ち充ちていた。これから台湾の建設は自分らの手でやるのだと甘い夢を抱いて帰ってきた日本留学組にとって、これほど大きなショックはない。どこから手をつけてよいかわからないまま、私はひとまず親のいる生まれ故郷の台南市に帰ることにした。

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