生みの親より育ての親というけれど
私の母は内地人であったけれども、自分の夫に対して内地人としてのわがままを通すようなことは決してなかった。それどころか、台湾人に嫁した以上、台湾杉(タイワンサア)を身につけ、台湾語を喋った。
キモノを着るのは、子供たちの学校の参観日くらいなものであった。熱帯下の台南市では、台湾杉のほうが汗だくにならないですんだこともある。母の台湾語は日本語のアクセントが生涯ついてまわったが、台湾語の流暢に喋れる日本人は皆無に等しかったから、よく目立つ存在だった。
また母は教育熱心で、「お金はいつでも儲けられるが、教育には年齢がある。多くの資産を遺してあげることはできないが、教育はおかず代を倹約してでも受けさせる」と言って、どうしても大学に行きたがらなかった弟の一人を除いて、すべて大学へ行かせた。戦前の日本で、男の子だって大学にやるのが容易でなかった時代に、私の姉と妹は目白の日本女子大に、私は東大に、私の弟は台北の高等学校に、同時に四人が家を離れて勉強に行かされた。ぼろ家に住み、食べ物には贅を尽くしていたが、どこから見ても大富豪の生活とはほど遠い暮らしをしている家で、四人も子供を同時に内地の大学や台北の高校にやっているというので、町中の評判になった。台南州の内地人の助役さんがわざわざ家まで訪ねてきて、「学資はどうやって工面しているのですか?」と質問されたこともある。決して豊かな生活ではなかったが、母が算段をして私たちの学資を捻出してくれたのである。
母は商家に育ち、自分も高等商業学校で勉強したせいか、商才があって自分の夫の商売を手伝うだけでなく、自分で店を構えて毛糸と手芸用品の店をひらいていた。台南市のような熱帯の町で毛糸を買う人があるかと思うかもしれないが、それが結構たくさんいるのである。暑いところに住むと汗が出やすいように毛穴がよくひらくので、ちょっとでも涼しい風が吹くと、寒い寒いと言って皆が毛糸のセーターを着込む。そういう人たちを狙って編物教室もあり、毛糸がちゃんと売れていく。子供の頃の私は店にお客が来ると、店員の代わりをさせられた。世間の人は私たちきょうだいを毛糸屋の子供と思っていたが、私の家には家の裏でつながった別棟があり、そこで玉葱とか、じゃがいもとか、歩兵第二連隊の食料に供する食品の加工をしていた。兵隊たちが料理をしやすいように、玉葱やじゃがいもはあらかじめ皮をむき、家に大きな釜を据えつけて福神漬までつくって納入していた。私たちを東京の大学までやった学資は、そうした裏方の収入から得たものである。
毎日のように大量の野菜を仕入れるので、私の父は野菜を「青田買い」していた。台風があると収穫に影響するらしく、二百十日の時分はよく真夜中に起き出してきて、空模様を心配そうに見上げていたのを覚えている。母はそうした父を助けて毎月の見積書や請求書を書き、半年に一ぺんくらい二人で棚卸しをして自分らの財産調べをやっていた。明らかに母のほうが父より締まり屋で、母のおかげで父の商売が成り立っていた。母には経済観念があって下駄からチリ紙に至るまで、日用品は年の暮れか、初荷の大安売りの時に一年分を一ぺんに仕入れる。家の中の物置きや引出しの中は、そうしたストックでいつも一杯だった。小学校時代の友だちの家を見ると、役人とか警察官とか教師が大部分だから、ツケで購買部から日用品や雑貨を買い、月給の中から棒引きしてもらっていた。私の家だけがすべて現金で物を買っていた。
「ポケットにお金がいくらあるかわかってしまうようなお金の使い方をしてはいけません。月給日にお金をもらったら気前よくお金を使い、月給日が近づいたらかけそばですませるようなお金の使い方は最低です」
と母はよく子供たちに言ってきかせた。母に特に理財の才能があったとは思えないが、教育熱心な母を持ったおかげで今日の私たちきょうだいがあることは事実であろう。にもかかわらず、私は子供の頃からこの生みの母を忌み嫌って育った。子供に厳しすぎたのと、自分に何か面白くないことがあるとヒステリックになって子供たちにあたり散らしたからである。台南市の夏はよくにわか雨がふる。雨が来るとせっかく乾きかけた洗濯物が濡れるので、あわてて竹竿ごと洗濯物を家の中に取り入れる。洗濯物が頭にふれて少しでもよごれたりすると、母はこっぴどく子供たちを怒鳴りつけた。ある日、母があわてて取り入れる洗濯物にふれないように小学生の私が身をかわすと、私の身体が蜂蜜の瓶にふれて瓶が床に落ち、木っ葉徴塵に割れてしまった。それを見た母は毛ばたきを持ってきて逆さに持つと、私を狂気のように叩いた。叩かれながら私は声を出して泣き、別棟に住むもう一人の母のところへ駆け込んで思い切り泣いた。何も故意にやったことでもないのに、こんな仕打ちをするとはとても自分の親とは思えなかった。子供心にも私は自分の生みの親を憎んだ。
もう一人の母親というのは父のもう一人の妻であった。五尺足らずで背は低いが、とても気立てのやさしい、美しい人だった。私の生みの親が持っていなかった美徳をすべて備え、料理の腕が抜群だった。私たちの食べる料理はすべてその母がつくり、女中さんに店のほうにある食堂まで運ばせた。私たちきょうだいは一人残らずこの母に馴染み、特に私の場合は、ひまがあると台所に入りこんで、鶏を絞めたり、食用蛙の内臓をとり出す仕事を手伝ったり、大根餅をつくる石臼をひいたりした。のちに『食は広州に在り』にはじまる一連の食べ物随筆を書くようになったきっかけと知識は、すべてこの台所から生まれている。
この母は背は低かったが、真っ黒でふさふさとした黒髪に恵まれていた。髷を結うために髪をほどくと、髪の毛が地面に届いた。「髪の長い人はしあわせがうすい」と中国では言われているが、それを地で行くような、しあわせうすい女の一生であった。父と私の生母が一緒になった時、この母は離別される代わりに別棟に移された。そういうことは当時の台湾では必ずしも珍しくなかったし、心中鬱々として楽しまなかっただろうが、自活していく手段を他に持たなかったから、それに甘んずるよりほかなかった。父はほとんどこの母のところへは寄りつかなかった。一年に一回だけ旧暦の正月にこの母の部屋に泊まったが、この時は私の母のほうがご機嫌斜めだった。妻は一人だけでももてあますものなのに、二人以上いることは、どんな男にとっても決して楽なことではなかったはずである。
商売のための作業場は別棟のほうにおかれ、父は仕事のために毎日そこへ姿を現わしたが、決して奥に入ろうとしなかった。生活費はもらっても夫に目をかけてもらえない妻は、その愛情をすべて私たちに注いだ。自分に子供がなかったせいもあって、私たちを自分の本当の子供のように可愛がってくれた。私は自分の母親が死んだ知らせを受けても泣かなかったが、東大に行っていた時、この母が死んだという手紙を受けとると、泣けて泣けて涙がとまらなかった。生みの親より育ての親というけれど、私にとってそれは単たる実感以上のものであった。
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