台湾の戸口法と日本の戸籍法

父にはすでに妻があった。しかし、二人の間に子供はなかった。こんな時、日本人なら妻を離別して新しい妻を迎える。しかし、台湾人も含めて中国人一般は、いったん縁のあった女を捨てるよりも一生面倒を見るのが人間らしいやり方だと考える。もちろん、内地人である私の母はそんなことでは承知しなかったに違いない。しかし、母のほうにも弱みはあった。たとえ一緒になったとしても、父と正式に結婚することはできなかったからである。当時、日本の戸籍法と台湾の戸口法には相互をつなぐ規定がなく、日本人が外国人と結婚して外国籍に移ったり、外国人が日本に帰化することはできても、日本内地の戸籍を有する者が植民地の人と結婚することは法律的に認められていなかった。
のちに東大経済学部に学び、民法の講義に出席したところ、穂積重遠先生が壇上から、雑談をするような切り口で、「法学部の僕の学生で台湾出身の者がいて、内地人の女性と結婚するから仲人になってくれと依頼されたことがありました。結婚披露宴の席上、二人一緒に並んだところで僕は、この二人は今日、結婚式をあげているけれども、法律的には本当の夫婦ではない。将来も夫婦にはなれない。なぜならば、戸籍法も戸口法も不備で、どちらからも相手の籍へ移ることができないからだ、とスピーチをしたことがあります」とおっしゃられた。他の学生たちはおそらくポカンとしてきいていたと思うが、私は「あッ。これは僕の親たちの時代の話をしているんだ」とすぐに気がついた。
もっとも法律上、正式に結婚はできなくとも、内縁の関係を結び、子供をつくることは簡単である。ただし、戸籍上、夫婦ではないから、生まれた子供はどちらかの親が自分の子供として届け出なければならない。私の姉が生まれた時、母は姉を邱家に残して出て行く決心をした。ただ、子供ができてみると、そう簡単に家を捨てることもできず、おそらく父にうまいこと口説かれたのであろう。結局、ズルズルべったりになって、私が生まれた時にはもう抜きさしならない泥沼の中に足をとられてしまっていた。姉と私の間にもう一人姉が生まれたが、子供の時に疫痢で夭折し、私のあと妹が四人、弟が四人、併せて十人が生まれた。
私の姉が生まれた時も、私が生まれた時も、父親の籍に入れるか、母親の籍に入れるかでもめた。母親の籍に入れれば、私生児になるし、父親の籍に入れれば、もう一人の母の子供として届けなければならなくなる。邱家には嫡子がなかったせいもあって、私と姉は結局、もう一人の母・陳燦治(タァンツァンテイ)との間の子供として父親の戸籍に入った。しかし、邱という姓で届ければ、以後台湾人として扱われ、教育を受ける上でも差別されるし、杜会へ出てからも、出世できなくなることは目に見えている。そこで母は私を邱家の相続人として台湾の籍に入れたが、次の妹以下はすべて日本名前をつけ、自分の私生児として福岡県久留米市東町にある自分の戸籍に入れた。以下、孝子、笑子、稔、寿栄子、裕、淳、剛、慶子と、すべて日本名前がついている。
同じ屋根の下に育ち、父親も同じなら、母親も同じであるにもかかわらず、私たち十人きょうだいは、姉の素蛾(そが)、私の炳南(へいなん)≪永漢は小説家になってから自分でつけた名前≫だけが本島人(当時、台湾人はそう呼ばれていた)で、妹以下は内地人になってしまった。たったこれだけの違いで、同じきょうだいでありながら、私たちの人生は大きく変わってしまったのである。もっともそれは学校に行くとか、世間の扱いが違うという意味であって、家の中ではごく普通のきょうだいであり、長幼序ありのタテ社会も歴然としていた。というのも、私の母は将来、下の弟たちが目上の兄や姉の言うことをきかなくなることをおそれて、兄や姉に少々理不尽なことがあっても、上の者の顔を立て、弟たちの前で兄の私を怒るようなことはまったくしなかったからである。

←前ページへ 次ページへ→

目次へ 中国株 起業 投資情報コラム「ハイハイQさんQさんデス」
ホーム
最新記事へ