第127回
暴力賛成!
私は子供の頃、いじめる側ではなく、いじめられる側にいた。
といっても年がら年じゅう、いじめられていたわけではなく、
本命は別にいて、
私の場合はついでにいじめられるという
“ビミョー”な立場にあった。
学校の休み時間に、ふと窓辺に立っていたりすると、
後ろからいきなり“ケツジン”
をお見舞いされることがよくあった。
ケツジンというのは、
両の手の人差し指と中指を重ねたものを、
浣腸みたいに尻に突き刺すいたずらで、
これをやられると脳天がしびれ、
つま先立って、しばらく息もできなくなる。
たわいのないいたずらで、
昨今の陰湿ないじめなどとは別物だろうが、
お見舞いされたほうは、
満座の中で言い知れぬ恥辱を味わうことになる。
私にはいじめを受けるだけの理由があった。
友だちがおらず、いつもひとりぽっち。
勉強はできるが、運動はそこそこ。
性格はネクラで、
それでもしっかりガールフレンドだけは確保している。
それがまた、
男子生徒の憧れるマドンナ的な存在であったりするから、
余計男たちの嫉妬と恨みを買ってしまう。
いじめから逃れる最良の手は、
いじめっ子をポカリとやってしまうことだ。
それ以外の手を私は知らない。
窮鼠猫を噛むという。
噛まれれば、猫だって一目置いてくれる。
腕っぷしに自信がないのなら、自信が持てるまで鍛えればいい。
三島由紀夫ではないが、
肉体の鍛錬は、やわな精神に多少の活を入れてくれる。
人を殴るには勇気が要る。
しかし男は、殴られたら殴り返さなくてはならない。
惰弱な精神こそがいじめの温床だからだ。
私は暴力肯定論者である。
口でわからぬのなら、
最後は鉄拳を振るうしかないと思っている。
実に単純なのだ。
だいいち暴力を否定したら、
難儀している若い娘さん(ここがポイントだ)を、
身を挺して助けることもできまい。
昔のいじめは、まだ健康的だった。
衆を恃んで一人の人間をいたぶることはせず、
そんな事態になっても、
誰かが「卑怯なマネはやめろよ」とか
「かわいそうじゃないか」と仲裁に入ってくれた。
しかし今は、勇気ある仲裁役がいないという。
なぜ親や教師は、「暴力反対」を唱える前に、
卑怯や臆病を憎む心を子供たちに植えつけようとしないのか。
幼い時期に刷り込んでしまえば、効果は絶大だろうに。
私たちは誇り高きサムライの子孫なのだ。
「卑怯」と「臆病」は断じて許してはならない。
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