| 第122回あらすじ読めば教養人?(その二)
 仕事が忙しくて本を読む時間がない、とこぼす人がいる。定年になったら読書三昧の日々を送るつもり、
 それまではお預けです、などと殊勝顔していうのだが、
 嘘っぱちである。
 読書が習慣化し、
 呼吸するみたいに身体のリズムに刻み込まれている人間であれば、
 たとえ死ぬほど忙しくても必ず本を手に取るもので、
 そのために睡眠時間を削ることなど少しも苦にしない。
 真の読書家は
 「本を読む時間がない」などと決してこぼさないものなのだ。
 毎日新聞が読書週間におこなっている恒例の調査によると、一カ月に読む本の数は、
 小学生が平均8冊、中学生が2.8冊、
 大人はぐっと少なくなって0.9冊なのだという。
 これじゃあ、子供たちの読書離れが嘆かわしい、
 などと偉そうなことをいえた義理ではない。
 そういえば、電車内でマンガを読む大人たちが
 目立って増えてきたような気がする。
 読書離れは、子供たちよりむしろ
 大人たちの間で静かに進行しているのだ。
 いわゆる「あらすじ本」がブームという話をしている。世界の名作文学を五ページほどに要約した本がバカ売れしていて、
 購買層は主に中高年だという。
 「教養としてあらすじだけでも知っておきたい」
 とする熱き思いが背景にあるらしいのだが、
 そんなものを知っていったいどうするのか。
 名作文学のあらすじなど区々たる情報の一つに過ぎない。
 「情報」はどこまで行っても情報でしかなく、
 「教養」とは何の関係もないのである。
 《朔風は戎衣[を吹いて寒く、如何にも万里孤軍来るの感が深い》。
 中島敦の「李陵」冒頭に出てくる一文である。
 33歳で夭逝した中島は、
 李陵の他に「山月記」や「名人伝」、「弟子」など
 硬質な漢文訓読体を駆使した格調高雅な作品を残している。
 斎藤孝流にいうなら、
 それこそ「声に出して読みたい」名品ばかり、ということになる。
 私は若年の頃、中島の文学に親しみ、
 意味がわからぬままに恍惚として朗唱したことがある。
 中島を愛した山本夏彦は、
 李陵にふれて
 《日本語が失ったリズムと力がここには躍動している》
 (『定本文語文』)と絶賛した。
 たかだか50ページの作品に、
 汲めども尽きぬ宝が眠っているというのに、
 いい年をした大人たちは、
 つまらぬあらすじを暗記することに血道をあげている。
 知ったかぶりをして、満座の前で恥をかく前に、
 「教養」とは何かを、もういっぺん考えてみたらどうなんだ?
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