第68回
そばと女
六本木のそば屋で昼飯をしたためていたら、
若いイケメンの白人男が入ってきて、ざるそばを注文した。
すると隣のテーブルでさっきまで
「ズ、ズズーッ」と勢いよくそばをたぐっていた
若いOLグループが、
突然音無しの構えでモソモソ食べ始めたのである。
「よしなよ、そんな野暮な食べ方は。
そばってえものはナ、
江戸の昔からズズーッと音をたててたぐるものと
相場が決まってんだ!」
口うるさい横丁のご隠居がいたら、
さぞやお説教に熱が入ったことだろう。
相場が決まってるといわれても、
外国人を前に景気よくズルズルやるのは相当勇気が要る。
かえって国際派を自任しているインテリほど
“モソモソ食い”になる傾向にあるようだ。
さてこの“ズズーッ”だが、
まことに遺憾ながら隠居の指摘は間違っている。
江戸の昔というが、
江戸300年の間はずっとモソモソ食いが主流だった。
江戸期には上つ方の礼儀作法が下々のレベルまで浸透していて、
そばにしろ沢庵にしろ、
あからさまに音をたてるのははしたないとされていたのだ。
ただ「聞く(菊)や良い(弥生)」という言葉があって、
菊の時季、つまり新そばが出る晩秋の頃から
弥生(桜の時季)にかけては、
かそけきそばの香りを愉しむために、
音をたてて啜り込んでもよいとされていた。
そばを大っぴらにズズーッとたぐるようになったのは、
明治に入ってから。
それも日清日露戦争以降の話だ。
噺家が、擬音によってそばを食べる仕草、
つまり仕形噺を高座で演じ、カッコいいからと、
いつしかその所作を庶民がマネるようになった。
そのうち季節を問わずズズーッとやるようになったのだと、
これは江戸研究家でそば通でもあり、先ごろ亡くなられた
杉浦日向子女史から直接うかがった話だ。
そばの“音たて食い”は、
意外や歴史が新しいということなのである。
で、優雅な食事マナーを実践してみせたOLたちは
どうなったかって?
いやこれが噴飯もので、くだんのイケメン外人は、
かそけきそばの香りを愉しみたいと思ったのか、
はたまた筋金入りのそば通なのか、
おぞましいばかりの音をたて、そばを啜り込んだのである。
OLたちの、いや驚くまいことか。
お後がよろしいようで。
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