| 第64回便利さの落とし穴
 雑誌記者の時代は手書きが主流で、私はもっぱら万年筆を使っていた。
 愛用したのはモンブランのマイスターシュテュック146。
 出来損ないの記者のくせして
 万年筆にこだわるなんておこがましいのだが、
 なぜかこのペンがないと一行も書き進められなかった。
 原稿用紙とペン先との相性が一番しっくりいっていたからだ。
 ワープロが登場しても私は万年筆を手放さなかった。言葉をキーボードで紡ぐなんて、とても正気とは思えなかった。
 編集部内でワープロへの転向組が勢力を増すなか、
 手書き組は徐々に少数派へと転落していった。
 (転向すべきか、それとも非転向を貫くべきか……)私の心は千々に乱れた(なにを大袈裟な)。
 そしてついに万年筆と訣別した。
 印刷所の執拗なる要請に従わざるを得なかったのだ。
 数週間後、私はみごとワープロ派に変身した。
 そして今、キーボードでなければ
 一字たりとも書けないカラダになってしまっている。
 手書き時代は、印刷された自分の記事を読むと、内容が三割ほどアップしたように感じられた。
 印字されると、ふしぎに記事も立派に見えるのである。
 ワープロなら
 最初から立派な記事を書いているような気分になれる。
 こうなるともう、手放せない。
 モンブランでなければいや、
 とダダをこねていたあの頃がまるでウソのようだ。
 日頃、前世紀の遺物といわれている私だが、意外や環境適応能力は高いのである。
 あらためて思うが、ワープロ(パソコン)は便利だ。
 切った貼ったが自由自在で、
 書いた原稿は即メールで送ることができる。
 難点は、電子メールに頼るあまり、
 人と直に話さなくなってしまったことだろう。
 手紙もめっきり書かなくなった。
 ひどい金釘流なので、ますます手紙を敬遠してしまう。
 近頃は電話をかけるのもおっくうで、
 ついには人と話せなくなってしまうのではないかと怖れている。
 日がな一日、メール打ちに興じている若者たちはもっと重症だろう。
 彼らには手書きの時代がなく、
 辞書と首っぴきで書かれたラブレターすらもらった経験がない。
 物心ついた頃はすでにメールの時代で、
 愛の告白もメールで済ませようとしている。
 そのためか、メール言葉はまるで鵞毛のように軽く、
 実体のないものになりつつある。
 言葉には本来、石片に刻みつけられたような目方があったはずだ。
 言葉がどんどん軽くなっていく。
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