| 第26回卑怯なマネはするんじゃない
 小中学校で、いじめや校内暴力、はては同級生殺人といったおぞましい事件が起きると、
 校長は全校生徒と父母を講堂や体育館に集め、
 凄惨な事件の報告をしたあと、
 沈痛な面持ちでこんな訓示を垂れる。
 「いじめは絶対にやってはいけません」
 「どんな理由があっても暴力はいけません」
 「お友だちとは仲良くしてください」
 そしてテレビカメラの前で校長は、「生徒たちに命の大切さを訴えました」と言葉少なに語る。
 ああ、このような言葉、このようなニュース画面を幾たび見たことだろう。
 まことに失礼ながら、校長の訓示というのは、
 判で押したようにいつも同じなのだ。
 こういう時にはこういう話をするというような、
 専用のマニュアルでもできているのだろうか。
 訓示もコメントもいつも同じで、いつも心に響かない。
 百万回繰り返しても、
 おそらく効果がないだろうという空疎な言葉の羅列なのである。
 私は政治家が「まことに遺憾に思う」「粛々と進める」
 「司、司で」「命をかけて」
 などという言葉を口にするのを聞くと、
 つい「このバカ野郎!」と叫んでしまう。
 どの世界にも手垢にまみれた常套句というのはある。
 が、在中国日本総領事館が投石被害に遭っても、
 原潜に領海侵犯されても
 「遺憾に思う」では、
 それこそ国民は遺憾に思ってしまうのだ。
 「遺憾」という生活実感のない空疎な言葉など
 法律で使用禁止にしてしまえばいいのだ。
 政治家の言葉が貧しいのは今に始まったことではないが、教育現場にいる学校長まで空疎な言葉を並べているようでは、
 日本の将来は暗いという外ない。
 言葉は一瞬、世界を凍らせるが、弛緩もさせる。
 「いじめはいけない」ときれいごとをいうが、
 この世はいじめの市ではないか。
 いじめがいけないのではない。
 いじめに耐え、それをハネ返す
 雑草のような逞しさがないことに問題があるのだ。
 いじめられるとすぐ死にたくなってしまうような、
 惰弱な心を持った子が育っていることが問題なのだ。
 私は常日頃、わが子に向かって「人と群れるな」と教えている。
 「連帯を求めて孤立をおそれず」
 という昔のはやり言葉を用いることもある。
 数をたのんで一人をいじめるなんて卑怯千万ではないか。
 親や教師が訓示すべきは
 「卑怯なマネだけはするな」の一言でいいのだ。
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