第216回
日米経済摩擦の行方を占う『奔放なる発想』
昭和56、57年頃から日米間の経済摩擦が激しくなっていきますが、
邱さんは『Voice』誌の昭和57年1月号から
翌年の3月号にかけ、この変化と行方に焦点をあてた作品
「奔放なる発想」を連載し、同名の書を
PHP研究所から出版しました。
「PHPの人が見えて、
『邱センセイの発想の原点みたいなことを書いてくれませんか?』
といった。
私がこれまで書いたことや、
これまでやってきたことを見ていると、
人より少し早いし、人と少し違っている。
どうしてそういう発想になるのか、
そのヒミツにふれてもらえませんか、
というような話であった。
私は自分がどういう発想をしたのか、
その原点に戻って考えてみるのは面白いことではあるが、
何といっても、『発想』という言葉は近来、
空気汚染されていて、見ただけでも敬遠したくなる人が
多いのではないか、といった。
どうせ大した発見をしているわけでもないのだから、
『私のこの切り口を見て下さい』といった意味の
『切り口』などという言葉ではどうだろうかとも考えてみた。
日本語の『切り口』という言葉には
名人芸的な腕の冴えという意味がこめられている。
社会現象をどういう角度から見るかによって、
その人の対応の仕方も変わってくるから、
『切り口』は出発点みたいなところであるが、
『発想』という言葉になれた人には
ちょっとわかりにくいところがある。
次に『発想の原点を教えてくれ』といわれても、
自分がなぜあんな発想をしたか、ふりかえって考えることは、
私にとって大した興味のあることではない。
論理の追究は学者のやることであって、
もし私に『なぜそんな発想をしたか』ときかれたら、
『たとえば今の時点では私はこういう発想をする』が
『なぜ私がそういう発想をしたのか、
その追跡はあなたの方で考えて下さい』
と答えるよりほかない。
やはり、この際、何十年前の昔に戻って、
あの時、自分はああやった、こうやった、というのはやめて、
今の時点で、私はどんなことを発想しているのかを
お見せした方が早いのではないかと思った。
たとえば、日米経済摩擦の只中で、
アメリカの実力をどう見るかは、意見の分かれるところである。
私の角度から見ると、アメリカは衰退の一途を辿っており、
世界の指導者としての実力を失いかけている。
打つ手、打つ手がいずれもマイナスに働くやり方だから、
一旦、負けグセのついた横綱みたいなもので、
高金利政策にしても、債務国の不良資産を
ソ連から肩代わりしつつある外交政策にしても、
黒星を重ねる相撲のとり口である。
私のこうした観察がはたして正しいかどうかは、
時間がたてば自然に答えがでてくるが、
いまの時点ではいささか乱暴な見方と思われるかもしれない。
それを承知で、自分の考え方を展開する気になったので、
勝手気儘なアイデアですよ、という意味で、
『奔放なる発想』と題した」(『奔放なる発想』)
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