Qさんの本を読むのが何よりスキ
という戸田敦也さんがQライブラリーのガイド役をつとめます

第129回
“救国の英雄・邱永漢”24年ぶりに台湾に帰る

いよいよ邱さんは帰国の道をえらび、実行しました。
「私は24年ぶりに、故郷へ帰る道を選んだ。
自分で言うのもおかしいが、
それは勇気の要ることであった。
生命を張って自己主張をしてきた人間が、
節を曲げたと批判されることをおそれず、
政治的妥協をすることは、
ガムシャラに自己主張をするより
難しいことだからである。」
(「海外投資」『香港の挑戦』に収録)

「かくして昭和47年4月2日、
私は昭和23年10月21日に台北の松山飛行場から
飛行機に乗って故郷を飛び出してから
実に24年ぶりに再び故国の土を踏むことになったのである。
24年、私が台北を逃げ出す時は、官憲の追及を恐れて
同志の友人と万一のことを考えて、
1時間ズラしてわざわざ別々の飛行機の切符を
買ったものである。
無事に飛行機が滑走路からとび立ったときは、
『ああこれで生命拾いをした』と思ったものである。

あれから香港に6年、日本に18年住んで、
私はもう二度と故郷の土を踏むことはないかも知れないと
思ったものである。

24年ぶりに台湾へ戻ってきた私は、
100人以上の新聞記者、テレビ記者にとりかこまれて
飛行場の貴賓室に連れ込まれ、記者会見に臨んだが、
あんまり長く台湾語を使う機会がなかったので、
受け答えもシドロモドロで、
一句一句言葉を思い出しながら答えるよりもなかった。」
(『私の金儲け自伝』)

「『週刊文春』(昭和47年6月19日号)の表現を持ってすれば
『“救国の英雄”となって邱永漢、台湾に帰る』であり、
岸信介氏以上の歓待を受けたことになっている。
一方台湾の新聞はあることないこと書いたが、
やがて論調が変わって『風雨夜帰人』という社説が
載るようになった。
台湾はマスコミが発達していて、
狭い島の中に新聞社が28社もあり、
テレビ局が3つもある。娯楽がなくて、
皆、テレビの前にしがみついているから、
私が毎日のように画面に出てくると、
もともと特長のある面構えだから、
たちまち顔を覚えられてしまい、
わずか一週間で道を歩いていても
知らぬ人なき男になってしまった。」
(「新しい日台間に外交関係は要らない」)

ちなみに「風雨夜帰人」とは
「アラシの夜に帰ってきてくれた人」という意味です。


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2003年1月3日(金)

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