Qさんの本を読むのが何よりスキ
という戸田敦也さんがQライブラリーのガイド役をつとめます

第116回
小説の心棒は反常識、反体制、反社会

「私の小説は自選集の下読みをしてくれた青年たちによると、
『いまでも少しもふるくなっていない』
『最近書いている金儲けの本なんかよりずっと魅力がある』
出来だそうであるが、
どうして私が次第に小説から遠ざかったというと、
それは私が小説という形式の文学に
疑問を持つようになったからである。

小説という形式の文学は、
文学史的には詩よりあとに発生したものであるが、
それはエッセイや評論を含めたいくつかの形式の一つにすぎない。
ところが、日本ではどういうわけだか、
小説即文学ということになってしまい、
収入の面においても、社会的地位からいっても
小説家が著述業者の代表格になっている。

それだけでもおかしな話だが、
そういう人たちによって書かれている小説が
どれだけ説得力を持っているかになると、
もっと問題である。

むろん、小説には娯楽的要素があって当然だが
小説の心棒になっているのは反常識、
反体制、反社会的な性格であろう。
たとえば、かつて恋愛が文学の最大のテーマであったが、
どうしてそうなったかというと、それは自由恋愛が
社会全体から受け入れられていなかったからである。(略)
ところが、あいにくなことに戦後の日本の恋愛も、
反体制もすっかり自由化してしまった。(略)
小説が恋愛や体制批判という最大のテーマを
失ってしまったのも無理はない。(略)

私がそういう考え方を持つようになったのは、
原稿料で生計を立てていかないでもよいだけの収入が
なるようになったせいもあるが、
そういう考え方をするようになった以上、
通俗的な、世間にありふれた小説を書く筆が
進まなくなるのも無理がないのである。
もし、私が将来、再び小説という形式を使って、
ものを書くということになれば
世間の常識に挑戦しなければならないから大変である。

しかし、世間の常識に挑戦するというだけなら、
私がその後に選んだ株式投資、税金、銀行、転職、独立自営
といったテーマは、その線に沿ったものであり、
文章以外の表現形式では
広く読者に伝えることができない性質のものなのである。」
(『私の金儲け自伝』)

「小説が書けなくなる年齢に達したのかもしれないが」
と邱さんは書き添えていますが、
邱さんの作家魂の深奥に触れる文章だと思います。


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2002年12月21日(土)

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