第96回
既成概念の打破をねらった『新説・二宮尊徳』
江戸時代に生き、明治以降、
「勤倹貯蓄のシンボル」とされてきた
二宮尊徳はいまの社会の中でいえば
月賦償還金融の始祖ではないかと考えて
邱さんは昭和37年から昭和38年にかけて
「歴史読本」誌に『新説・二宮尊徳』を執筆し
春秋社から出版しました。
「戦前の教科書がとりあげた二宮金次郎は
第一は学問のすすめであり、
第二は親孝行であり、
第三は勤労のすすめであり、
第四は公益優先の教えであった。
これらはごく当たり前のことであって、
その当たり前のことがなかなか行われなかったからこそ、
逆に二宮金次郎にそれらの美徳のいっさいを
おしつけた形になったのであろう」
(『新説・二宮尊徳』あとがき)
「私が二宮尊徳をとりあげた動機は、
明治期の道学者たちがつくりあげた金次郎像の
上塗りをすることではなく、
むしろ、その上塗りを洗いおとして、
従来見失われていた、彼の理財家としての地金を
みなさんにお目にかけようとしたからであったから、
なるたけ記録に忠実な態度をとった。
記録は与えらたものだが、解釈は従来と違っているわけである。
『新説・二宮尊徳』と名づけたゆえんである」(同上)
二宮尊徳の「理財家としての地金」とは
どんなものなのでしょうか。
「尊徳の遺訓や事業を調べてみて、彼の根本思想は何かというと、
一言でいうならば『小を積んで大を致す』ということだと思う。
彼は大名たちが莫大な収入源を持ちながら、
財政困難に陥るのを見て
『十万石の米も、特別の大きい米ではない。
一粒一粒が集まって十万石になるのだ。
だから十万国も収入を持ちながら手元不如意になるのは、
米櫃の中で飢え死にするようなものだ』
という意味のことを言っている」(同上)
「では、彼の財政建直しの秘訣は何か。
秘訣はないのが経済の秘訣だといった方が正しいだろう。
『入るをはかって出ずるを制す』という家計簿の方法を
彼は藩政に応用したまでのことである。
この法則を実行させるために、彼は人に嫌われるほど
徹底した倹約を依頼者たちに強制した。
それを実行した領地では、財政のバランスが良くなったが、
そのために彼は多くの敵をつくった」(同上)
「ただ二宮尊徳の場合は、農村復興という
大目的を持っていたので、金融政策に妙を得ていた。
彼は頼母子講で積んだ庶民金融の経験を農村に持ち込み、
高利貸から金を借りて苦しんでいた農民たちに
無利息(実際には低利)で金を貸しつけ、
分割払いで取り立てた。(略)
この意味で、尊徳は『月賦償還金融』の始祖ということができる」
(同上)
とうことで邱さんは
「二宮尊徳は本を手にもった少年像より、
ソロバンを持った中年像がふさわしく、
さらにそれは小学校の校庭よりも、
相互銀行や信用金庫や信用組合の屋上に飾られたほうが
一層ふさわしいと思うがどうであろうか」
と新しい尊徳像を投げかけました。
なおこの作品は「企業再建」や「財政再建」が
取りざたされるようになった昭和58年、
尊徳が家政や藩政の建て直しに尽くした面に着目し、
『再建屋の元祖 新説・二宮尊徳』と改題し
Qブックスの一冊として再版されてました。
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