第70回
「ビルが新築されているのを見てピンと来るものがあった」
邱さんは「キチガイ日本」を連載していた
「オール読物」の10月号で「借金のすすめ」を提案しました。
のちの作品でその提言の舞台裏を明かしています。
「 どうして『借金のすすめ』を書いたかというと
昭和30年代のはじめ頃だったと思うが、
大阪の御堂筋を歩いていて、
次々とビルが新築されているのを見て、
『ビルを建てるお金を銀行が貸してくれない筈なのに、
どうしてこんなにビルがこんなに次から次へと
建てられるのでしょうね?』と、
一緒に歩いていた鶴屋八幡の今中善治さんにきいたことがあった。
『ほんまにどこにお金があるんでっしゃろ。
大方、工場建てるいうて、銀行からお金を引っ張り出しとるのと
ちがいますか』 と今中さんは答えた。
当時、私は鶴屋八幡がスポンサーになっていた
『あまカラ』という食味雑誌に『食は広州に在り』を書いていた。
たまたま大阪に行き、
鶴屋八幡本社の3階にある甘辛社の編集部を訪ねると、
スポンサーである今中さんが吉兆とか、
鶴屋とか、灘万とかいった料亭に案内してくれた。
当時の私は作家一筋の道をひたむきに走っていたから、
経済界のことなど全く眼中になかったし、
実業家との付き合いも全くと言ってよいほどなかった。
それでも経済的なセンスがいくらかあったと見えて、
今中さんと話を交わしておるうちに、ピンと来るものがあった。
今中さんは、見聞きしていたことを何気なく私に答えたと思うが、
資金不足の世の中で、銀行のお金が借りられたのは
工場の建設をしている会社だけだった。
何しろ、焼け跡の東京や大阪には
まだ鉄筋コンクリートの建物は少なく、
もしビルが建てられたら、いくらでも借手はあったし、
それを担保にすればまた銀行からいくらでも
お金を借りることができた。
お金儲けのうまい大阪の人は、
そういうことに早く気づいたと見えて、
工場を建てるという名目で銀行からお金を借り、
それをビル建設費にまわしていた。
お金には色はついていないから、
一旦、銀行の窓口から出てくれば、あとは何に使われようと、
文句を言われないですんだのである」
(『ダメな時代のお金の助け方』平成9年)。
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