Qさんの本を読むのが何よりスキ
という戸田敦也さんがQライブラリーのガイド役をつとめます

第51回
日本人論の構想を売り込みに中央公論社を訪ねました

直木賞を受けながらなかなか注文がもらえない邱さんは
状況を打開するために東洋の思想をとりあげました。
と同時に日本人の思想も取り上げた作品を執筆することにしました。

「本の編集者は読者が自分たちのよく知っていること、
身につまされているに興味を持っていると
しか思えなかったので、日本の話をして勝負しようと決心した」
(『私の金儲け自伝』)のです。

「台湾に生まれたことは私にとってハンディキャップに
なっている面もあるが、それを逆用する方法もある。
たとえば私は学校へ行ったら日本語、家に帰ったら台湾語という
二重生活をやってきた。
日本および日本人についてはかなりよく知っているが、
同時に日本人以外の、主として中国人的な生活もよく知っている。
それならば私の立場から日本人の文明批評をやれば、
日本人の関心事とふれあうことになるのではなかろうか」
(同上)と考えました。

そこで昭和32年の5月に『食は広州に在り』を刊行したのを機に、
邱さんは日本人論の構想をもって中央公論社を訪ねました。
「わざわざ中央公論社を選んだのは
『中央公論』がインテリを相手とした雑誌であり、
且つ社長が私とはほぼ同年代の人で
ひょっとしたら話をきいてもらえるのではないかと
期待したからであった。
嶋中さんとはこのときが初対面であった。
いきなり予告もなしに訪ねて行ったのだが、
秘書に名刺を出すと、すぐに応接室にとおされ、
やがて現れた嶋中さんは
『あなたは"文藝春秋"の出した方だから、遠慮していましたが、
おいでいただいて有難うございました。
早速ですが"中央公論"の本誌に三十枚くらいの原稿を
書いてくれませんか』とすぐその場で注文をくれた。
私は、
『それは有難いお話ですが、今日、お伺いしたのは、
三十枚の原稿を書かせてもらうことではなくて、
実は"サムライ日本"という連載を書かせてもらえないかと思って
伺ったのです』と、当時人気のあったラジオ番組に擬して
"日本人の二十の扉"とでもいうか、
外国人が日本人についてわからないことがあったら、
この二十章を読めば大体わかる、という日本人論の構想について
説明をした。」(『邱飯店のメニュー』)

自分が負っているハンディキャップを逆手にとって
出版社に自分を売り込みにいった邱さんの気概が伝わってきますね。


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2002年10月17日(木)

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