Qさんの本を読むのが何よりスキ
という戸田敦也さんがQライブラリーのガイド役をつとめます

第47回
売れない状況を打開するため、東洋の古典をとりあげました

邱さんは直木賞をもらい、盛大な祝賀会も開いてもらいました。
しかし邱さんのところには注文らしい注文が来ませんでした。
「前途を祝福された出発であったが、
小説家としての私のその後は必ずしも順調ではなかった。
なるほど月収10万円の作家にはなれたが、
月刊誌からたまに口がかるだけで、
新聞社から連載を書けという話はさっぱりこない。
私のようなストーリー・テラー的要素のある小説家には
中央紙はともかく、地方紙ならすぐにかかりそうなものである。
しかし、それがさっぱりこないのである。」
(『私の金儲け自伝』)
こうした状況を打開するための一方法として
東洋の古典を取り上げることを考えました。
時間をもてあましていましたので、古典の勉強をしました。
「そうしたら論語に出てくる孔子はかつて学校時代に教えられた
孔子の偶像とはまったく違ったもので、
人間的な欠陥を露呈ししたきわめて生き生きとした
オジさんだったのでびっくりしてしまった」
(「私の知っている孔子と韓非子」。
(『食べて儲けて考えて』昭和57年に収録。)とのことです。
そこで孔子の思想と生き方を現代人の立場から描いてみようと考え、
「私の論語」という百枚ばかりの原稿を書きました。

「もしかそして、この雑誌なら取上げてくれるかもしれない」
と思って河出書房に掛け合いました。
そのとき河出書房の「知性」の編集者をしていたのが
のちに『江分利満氏の華麗な生活』を書いた山口瞳さんですが、
掲載を断られました。

やむなく原稿料のもらえない「大衆文芸」に掲載してもらいました。
この「大衆文芸」に掲載された「私の論語」が
池島信平さんの目にとまり、
池島さんからの注文で「私の韓非子」を執筆し、
この作品が『文藝春秋』4月号に掲載されました。
ただ掲載された「私の韓非子」は枚数制限もあり、
当初書きたいと思っていたものと違ったものとなったため、
年末から新年にかけ100枚の原稿に書き直し、
「日本読書新聞」に連載しました。

続けて「私の荘子」を書き下ろしで書き、「私の論語」、
「私の韓非子」、「私の荘子」の三篇がそろったところで
邱さんは創元社に持ち込みました。
この出版社の社長の小林茂さんとは懇意にしていたのですが
なぜか出版を断られてしまいました。


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2002年10月13日(日)

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