第40回
『おめでとう』と檀さんの威勢のいい声がきこえてきました。
邱さんがはじめて香港を訪れたとき、邱さんは
「船底の奴隷部屋から一等船室に這い出してきて、
海から吹いてくる新鮮な風に当たっているような気がしました」。
((私の見た香港の前途。『金銭通は人間通』、昭和60年に収録)
しかし、「たいしたお金もなく、言葉も通じず、知人もなく、
その上学歴が何の役に立たない香港は冷酷無比なところ」(同上)でした。
小説「香港」はこの「冷酷無残な地」で逞しく生きる人たちの姿を
生き生きと描いた作品です。
「香港」が「大衆文芸」の8月号から11月号まで4回にわたって連載され、
昭和30年下半期の直木賞候補作に選ばれました。
昭和30年1月23日のことです。
邱さんのところに檀一雄さんから電話が入りました。
その頃、邱さんは『濁水渓』が出版された頃に、九品仏の借家を出て、
多摩川べりの家に移っていました。
「寒い朝に檀一雄さんからうちの隣の家に電話がかかった。
当時私は多摩川べりの田園調布1丁目というところに住んでいたが、
自分の家に電話がなかった。
隣りから『お電話ですよ』と言われてとんで行ったら
『おめでとう』と檀さんの威勢のいい声がきこえてきた。
私は感無量ですぐには返事ができなかった。」
(「だから私は香港に移住した」。『日本脱出のすすめ』、平成5年に収録)
邱さんは、日本を代表する文学賞、直木賞を、
外国人としてはじめて受けました。
その返礼として、邱さんは「運命に忠実な作品を」と題する文章を書きました。
「受賞の報に接する一週間程前、
私は夢の中で虎が水底から吼えるのをきいた。
目が醒めてから古書を繙いてみると、
老虎吼ゆるをきけば名声大いにふるふと書いてある。
私は自分が再度直木賞の候補に上げられてゐることを思い出し、
あれこれと何か関係があるのだろうかと考へて見たりした。
しかし、現実に、直木賞をもらって見て私は改めてこの道の嶮しさを感ずる。
今後、私は私なりに自分の背負った運命に忠実な作品を書いていきたいと
思ってゐるが、これは私の願望と云うよりは、
私に残された唯一の道かも知れない。」
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