第37回
小説「検察官」を書いて直木賞に再挑戦しました。
邱さんが初出版作品の「濁水渓」を刊行したのは、
家族と一緒に日本に着てからわずか半年ばかりたってのことです。
しかも、この作品は直木賞の候補作に選ばれました。
ただ、受賞の栄を受けるには至りませんでした。
邱さんは小学校から大学までいっぺんも落第した経験がなく、
自分の思い通りにならなかったのはこのときがはじめで、
かなり打撃を受けました。
しかし、「苦節十年二十年という文学青年の多いこの世界で、
小説を書きはじめてすぐに直木賞の候補に擬せられたのだから、
これだけでも幸運と思うべきだろう。」(『邱飯店のメニュ−』)と
考えなおし、落選の翌日から、すぐにも原稿執筆にとりかかりました。
書いた原稿を、『文学界』、『新潮』、『群像』に持ち込みましたが、
雑誌社の新人に対する扉は厚く、わずかに「文学界」編集長の尾関栄さん
だけが理解を示してくれ、同誌に「検察官」を掲載してくれました。
「検察官」は、処女作品「密入国者の手記」を書く機会を与えた
王育徳さんの実兄である王育霖さんをモデルにした小説です。
邱さんが『わが青春の台湾 わが青春の香港』で2・28事件について
書いたところによると、日本が台湾を統治していた50年の間に、
東大を卒業した台湾人が約百人ほどいましたが、
この事件で三人が殺されてしまいました。
この三人うちの一人が王育霖さんです。
「王育霖さんは、新竹地方法院の検察官をやっていたが、
新竹市長がアメリカの援助物資である粉ミルクを横流している
証拠をつかんで検挙したところ、逆に法院の上司に解雇されてしまった。
やむをえず台北に出て建国中学の教師をやっていたところ、
事件が起こると、新竹から糾察隊が押しかけてき、そのまま連行され、
行方不明になって」(『わが青春の台湾 わが青春の香港』)しまいました。
小説「検察官」はこの事件をとりあげました。
邱さんはこの「検察官」が昭和30年上半期の
直木賞候補作になるのではないかとひそかに期待しました。
しかし、残念ながら候補作の中に入ることにはなりませんでした。
邱さんはすっかり落胆してしまい、小説を書く意欲を失ってしまいました。
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