縄はたわめず

「罪は大夫に上らず」といって、韓非の時代には、刑法は大臣クラス以上には適用されなかった。したがって悪事がバレても、大臣ともなれば、身の安全を保つことができたのである。今日は一応、法は万人に適用されることになっているが、この傾向がまったく解消されたとはいえないであろう。
韓非は彼の法思想の当然の帰結として、士大夫の特権を否定し、法は身分のいかんにかかわらず適用されるべきものと主張した。
「熟練した大工は目分量で縄墨に符合させることができるが、しかも必ず物差しを使う。賢人は即断してもまずまちがいはないが必ず先王の法に照らしあわせる。巻尺はピンと張ってはじめて柱を切ることができ、水平尺は平らではじめて出っぱったものを切ることができ、秤は正しくてはじめて重きを減じ、軽きを増すことができ、桝は一定してはじめて多い少ないを加減することができる。それゆえに法はこれを制定して、そのとおりに実行すればよく、法を適用するにあたっては、身分の高い者だからとて遠慮すべきではない。
また知恵者だろうが勇者だろうが、あるいは大臣だろうがこれを避けるべきではない」(有度)
韓非の法思想のもう一つの特徴は、いわゆる刑名の一致を主張したことである。刑名の一致とは、今日のことばでいえば、政治家や役人はその言行が一致しなければならず、その進言に従って事にあたらせた場合、事がその言と食い違ったら罰すべきであるというのである。由来、政治家や軍人には大言壮語型の人間が多い。たとえば日支事変が勃発したとき、日本の陸軍大臣はニヶ月で片づげてしまうと豪語したが、実際には八年もかかって、しかも日本の敗戦に終わった。こういう人間はもちろん、責任を問わるべきであるが、逆にけがの功名をあげた場合も罰せらるべきである。言に過ぎる大功を喜ばないわけではないが、言行の不一致による害悪は大功よりも影響が甚大だからである。
「むかし、韓の昭侯が酒に酔って寝てしまったことがあった。寒いときだったので冠係が見かねて王の衣を上からかけてやった。目を覚ました王は喜んで、左右の者にだれが衣をかけてくれたのかと聞いた。冠係でございますと左右の者が答えると、王は衣服係と冠係を二人とも処罰した。衣服係を罰したのはその職務怠慢のためであるが、冠係はその越権行為を責めたのである。自分を寒さから防いでくれたことを喜ばないわけではないが、越権行為の弊害はそれどころでないと考えたからである」(二柄)
これを現代の政治にあてはめれば、たとえば農林大臣が外務大臣のなすべき職務に割り込んで、いくらか功績を上げたとしても、国民は無条件に喜ぶべきではない。むしろ外務大臣の職務怠慢を責めると同時に、農林大臣の越権行為を憎まなければならない。なんとなれば、陸軍大臣がその職務を超えて帝国議会を傀儡化して、ついに日本を敗戦に導いたのと同様に、それは政治の紊乱する第一歩だからである。
さて、適用さるべき法の内容は時代により、また国情により異なるのは当然であるが、しかし法の規定は正確かつ詳細でなければならない。
「書物は簡素に書いてあると、弟子どもがあれこれと敷衍して、書いた当人が思いもかけなかったような解釈を生ずるおそれがある。法律もどっちにも解釈できるような曖昧な省略をすると人民にいろいろな議論を生ずることになる。それゆえ、聖人の書は必ず議論を尽くし、名君の法律は詳細をきわめるものである。思慮を尽くして、得失を計るのは、いくら知恵者でもむずかしいし、反対にあれこれと思案をしないで判例に従うのは愚者にも容易なことである。それゆえ、名君は愚者にも容易に判断のつく方法を採用し、知恵者でも判断に迷う方法を捨てるのである。これが知恵を用いないでもうまく国を治める道である」(八説)
一審、二審、三審と裁判を重ねるたびに裁判官の意見に食い違いを生ずるような法律、たとえば借家法や債権法のごときもの、またそれを犯さなければ、国民が食っていけなくなるような法律、たとえば食糧管理法や為替管理法のような法律、さてはあっても無きに等しいほど無力な法律、たとえば小切手法や手形法のごときは、いずれも法の尊厳を傷つけることはなはだしい悪法の見本であって、この結果は国民のあいだに法を軽視する風潮を生じ、「悪法は守らなくてもよい」と公言する無法者さえ現われるにいたる。もし法律頼むにたらずとなれば、虎はたちまちその本性を現わし、鼠はその本能に従って身を守らねばならなくなる。法律は元来、虎のごとき悪党から良民を守るために存在するものであり、刑法は法を犯した者に対して復警するために存在するものではない。
「しかるに、学者先生はみな口をそろえて刑罰は軽くしたほうがよいと主張する。これこそ亡国の理論である。なんとなれば、およそ賞罰は奨励と禁制のためであって、賞が厚ければ、目的とするところを実現しやすく、罰が重ければ禁制を守らせることができるからである。利を欲する者は必ず害を憎む。それゆえに平和を望む為政者は賞を厚くするし、戦乱を憎む為政者は刑罰を重くする、刑は軽いほうがよろしいと主張する者は、戦乱を憎む精神が不足しているばかりでなく、平和を望む精神もまた不足しているからである。かかる徒輩は術において欠けているのみならず実行力においても欠けているというべきであろう」(六反)


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