かように自然の理にかなうこと、無理をしないことが人生を生きる最良の方法であると荘子は考えた。しかし、無理をしないでも災はどこからでもやってくる。生まれつき片輸の者もあれば、天災にあう者もあり、また刑罰に処せられる者もある。こうした運不運は人力をもって避けられる性質のものではない。だから、これは運命として甘受するよりほかなく、その好運に酔うこともない代わりに、その悲運に泣くこともない。
「公文軒が右師という足を片一方切られた受刑者を見て驚いて聞いた。"いったいどうして足が片一方ないのですか。生まれながらですか。それとも人に切られたのですか"。右師はそれに答えて"私は片足になるよう運命づけられたのでしょう。ちょうど、人の顔形がそれぞれ定められているように、天のなせる業だと思うよりほかありません。さぞ不自由でしょうと同情されることもありますが、野生の雉子のようなもので、十歩歩いて一度ついばみ、百歩歩いて一度飲むといった乏しい生活ですが、それでも籠の中に飼われたくはありません。人に飼われれば食う心配はなくなるかもしれませんが、楽しみがないですからね」(養生主第三)
生と死は、あたかも一日に夜明けがあり、日暮れがあるようなもので、人の力をもってはどうにもならないものである。人は親のためにさえ自分の体を大事にするし、また君のためにさえ生命を投げ出す。天は親よりも君よりも大いなるものであるから、その定めに従うのはむしろ当然であろう。
しかるに、人はまるで魚が陸の上にはね上がって苦しみもがくように自然を離れ、わずかな水をふきかけあってありがたがっている。そんな生き方よりもいっそ湖のなかへ入ってお互いのありがたさを忘れ合ったほうがよい。徳君を賞めそやし、暴君をせめぐよりも、いっそ二つながらに忘れて善悪のない世界に生きたほうがよい。天地はわれわれに肉休を与え、生という苦しみを与え、老という安らかさを与え、そして、また死という休息を与えてくれる。それゆえに、生をよいと思う者は同時にまた死をもよいと思う者なのである。
漁師は舟を谷間に隠し、網を沢に隠しておけば安全だと思っている。しかし、夜中に力のある者がこれをもって逃げる可能性がないとはいえないのである。小を大のなかに隠してさえ必ずしも安全ではない。唯一の安全な方法は自然を自然のなかに隠すことである。
そうすれば、見失うという心配はなくなるであろう。
ところが人間は、人の形をもって生まれたというだけにすぎないのに、それを絶対的なものと思い込む。人の形などは次々と移り変わってきわまりのないものだし、人生の楽しみなどはまことに蓼蓼たるものにすぎない。だから、利口な人間は自然に生きることを考え、生命が短いのもよし、長いのもよし、生まれてよし、死んでよし、と生死のいかんにこだわらないのである。
「子祀、子輿、子犂、子来という四人の男たちが一堂に会して互いに言い合った。
"誰か、このなかに無を頭とし、生を背中にし、死を尻にし、生も死も有も無も要するに同じだと思う者はおらんか。おればそいつと友達になりたい"
四人は互いに顔を見合わせて笑い、一人として反対するものがなかった。そこで四人は莫逆の友になった。ところが突然、子輿が病気になった。そこで子祀が見舞いに行くと、子輿は言った。
"偉いもんだな、造物主というやつは!おれのこの体をひん曲げてしまおうとしているらしい。このとおり五臓は上へあがってしまい、あごはそのなかに隠れ、肩は頭より高くなり、背中のこぶはまっすぐ天を指しているよ"
そして、まるでなにごともなかったように自分の姿を井戸の水に映し見ながら、
"造物主というやつはおれの体をひん曲げてしまおうとしているらしいな"
と繰り返すのである。
"悲観しているかね"と子祀が聞いた。
"いやいや"と子輿は首を振った。"病状がこの調子で進んで、もしおれのこの左ひじが鶏になってくれば、おれは夜明けにひとつ閧の声をあげてやろうと思っているのだ。またもし右のひじが弾丸になれば、空飛ぶ鳥を射落として焼鳥でも作ろうと思っているのだ。
またもし尻が車になり、精神が馬になれば、それに便乗してどこへでも行こうと思っているのだ。だいたい、得失は時の巡り合わせだから、その巡り合わせをさとれば、べつに楽しいことも悲しいこともないよ。紐というやつはほどいていくものなのに、人間はとかく、結ぶことばかり考えている。いくら結んだところで自然の力に抗すべくもないじゃないか"
次に、今度は子来が重病にかかった。気息奄々としていまにも死にそうにしている。その妻がそばについて泣きくれているのを見ると、見舞いに来た子犂が、
"さあ、どいたどいた"と追い立てた。それから戸によりかかったまま、子来に向かって言った。
"造化というやつは偉いもんじゃないか。今度は君をなんにするつもりなんだろう。どこへ行かせるつもりなんだろう。鼠の肝にでもするつもりなんだろうか。それとも虫の腕にでもするつもりなんだろうか"
"おれたちは親が東へ行けと言えば東に行くし、西に行けと言えば西へ行く"と子来が答えて言った。
"天地自然の定めは親よりも偉大なものだからね、おまえに死ねと言うのに死なんぞ死なんぞと言えば、少々わがままというものだ。天地はおれに形を与え、生という苦しみを与え、死という休息を与えてくれる。鍛冶屋が鉄を鋳ようとしているのに、鉄のほうがおどり上がって名剣でなければご免だとインネンをつければ、なにを身のほど知らぬ野郎めがとどなられるにきまっている。それと同じように、人の形をとったからとて、人だ人だ人でなければいやだと騒げば、ろくでなしの人間めがと造化の主からどなられるのがおちだろう。かりにこの天地を一つの大きな炉にたとえ、造化の主を名工だと思えば、黙ってするにまかせりゃいいじゃないか。安らかに眠りにつき、ハッとして目を覚ませば、それで結構だよ"」(大宗師第六)
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