『週刊朝日』に連載された「宰相夫人秘録」は、その意味で最も寛子夫人の面目を躍如とさせたものであるが、単行本になると私はすぐに買ったし、あとから署名入りの著者本もいただいた。中に出てくるエピソードの中でも傑作は佐藤家に出入りした政治家たちの話で、たとえば女のように長い髪毛にピンクの上着をきたジュリーに、軽井沢で中曽根さんが、「きみは、なんて名前ですか?」「ジュリーです」「しかし、きみ、本名があるだろう。親がつけてくれた名前が…。きみも男なら無法松の一生の三船敏郎みたいに勇ましく太鼓でもたたいたらどうかね」といった話。それから同じく軽井沢の別荘に訪ねてきた郵政大臣に成りたての三十九歳の田中角栄と車に同乗したら、外ばかり眺めてロクに話もせず、突然、ころはァ元禄ゥ十四年…、と浪花節をうなり出した。それからいくらか打ちとけてやや饒舌になり、「私は十九歳で結婚しました。あなた方のような結婚をすれば(佐藤氏と佐藤夫人は六歳違い)、十二、三歳の少女を選ばねばなりません。だから、私は年上の女房と一緒になったのです。私は、人よりすべて十年早いんです。だから十九歳のとき付き合う相手は二十九か三十近い人、自分が二十代のときは四十代の人と付き合うというわけですよ。ハッハ、ハ、ハ……」すかさず佐藤夫人が切りかえした。「なんでも十年早いということですと、大臣、人より十年早く亡くなることになりますね」「ウーン。やっぱりそうなりますかなあ」と田中さんが無表情に頷いたという話などは、きいているだけでおかしさがこみあげてくる。
そういう政治家の言動をよく観察している人だから、楽しい人でないわけがない。一回目に来られたのが昭和五十年九月三十日、前宰相が亡くなってから三ヵ月あまりののちのことであった。ご主人亡きあとを慰めてあげたいという気持もあってのことであるが、長男の龍太郎夫妻とご一緒に現われた寛子夫人は、ご主人の死から幾分気をとりなおしており、最初はやや神妙だったが、酒を飲むほどに口が軽くなり、
「もう再びホワイトハウスに招待されることもありませんから、本当のこといいますけれど、あそこのお料理はおいしくございませんのよ」
何でも思ったことはズケズケいうし、息子さんには酒を飲みすぎて正体を失うようなことはしていけません、と注意をあたえながら、自分が飲みだすと止まらなくなって、たちまち「言葉の多き、口のはやき」がはじまるのである。
もう一回は、森英恵ご夫妻と同席のときであった。寛子夫人は、パリやニューヨークでも知られたハナエ・モリさんと仲好しで、ミニスカートの震源地も、もとはといえば、ハナエ・モリさんである。このときは、阿川弘之夫妻と、日本オイルシール会長の鶴正吾夫妻もご一緒であったが、大きな素晴らしい胡蝶蘭が花屋から届いたのは、お約束した日の一週間前のそのまた前日であった。私は気の早い寛子夫人のことだから、ひょっとして一週間間違えて、つぎの日に来るのではないかと、あわててそれとなく電話をかけたら、「わかってます。わかってます」と口早に答えたが、本当はやっぱり勘違いしていたのではないかといまも疑っている。それくらい早とちりの人だが、あんな愉快なミニおばさんなんてまたといないのではないかと、いつも思っている。

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