その点、私はメニューはすべて自分で作っているので、肉ばかり重なるということはまずない。また牛肉と家鴨の肉が出ることがあっても、片一方が炒めた料理だとすれば、もう一方は、オーブンで焼くとか、油で揚げた料理になって、調理法がまったく違うから、重なったという感じはしない。それから自分でメニューを作るとすれば、自分の食欲に合せた料理を選ぶことになるから、年をとるにつれて嗜好も変わってきており、いつの間にか豆腐とか野菜とか湯葉とかを主材料とした料理が多くなってしまった。
たとえば、二十年前に自分で作ったメニューと昨今作っているメニューを比べると、これでも同じ中華料理かと首をかしげたくなるほど内容が一変している。まずオルドーブル一つ例にとっても、二十年前は牛肉、牛舌、牛レバー、豚の胃袋、叉焼、鶏のテバ、鶏のキモといった、肉の煮込みを盛んに使った。しかし、最近では、皮蛋拌豆腐とか、涼拌干糸とか、蛋白銀芽とか、魚仔花生とかいったものに一変してしまった。ピータンと豆腐をあえるとか、豆腐干(堅豆腐)を糸状に切ってセロリー、唐辛子とあえるとか、卵の白身を焼いて千切りにしたものとモヤシを炒めるとか、ナマの落花生をいったん油で揚げて、小女子を同じく油で揚げたものと混ぜ合せて炒めるとかいった小菜ばかりである。それにカラスミを焼いたものか、青島牛舌といって、牛タンを青島風に塩漬けにして茄でたものを薄切りにして四皿に分けて、俗にいう四拼盤にして出すのである。
つぎにスープはフカのヒレか、ツバメの巣か、トウガンが多くなったが、三品目くらいにはほとんど必ずのように、煎素鶏という湯葉の料理を出す。素鶏の素は精進という意味だから、鶏という名がついているけれども、本当は湯葉をフライバンで裏表、油で焼いたものである。まず干椎茸を水で戻して軸をおとし、油で両面をキツネ色になるまで焼く。これを戻した水に醤油を加えて十分間ほど煮て繊切りにする。つぎに干えびをきれいに洗って少量の水で戻し、油で焦げないようにカリカリに揚げてからミジン切りにする。湯葉を広げて、椎茸の煮汁を塗り、柔らかくなった湯葉の上に椎茸をパラパラとのせ、その上から干えびの粉になったのをふりかけてから巻き物にする。フライパンを熱くしてから油を多目に入れ、油が熱くなってから湯葉巻を入れて両面焼くと、適当に柔らかく、適当に歯ごたえのある煎素鶏ができあがるのである。いつかこれを一口かんだ途端に、安岡章太郎さんが、「邱家の料理は昔の水準に戻ったようだな」と叫んだことがあった。
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