この話にはまだ後日譚がある。それから二十何年たって、うちの長女がお嫁に行くことになった。娘が選びに選んだ相手が、どういうわけか日本料理屋の若旦那であった。披露宴がホテル・オークラでひらかれ、当日は新郎側のお客として、金田中、浜作、竹葉亭をはじめ、東京中の一流の料理屋の旦那衆が一堂に会した。料理は中華料理でも、日本料理でもなく、西洋料理であったのが、参列者にはなんとも不可解だったらしいが、私の方も花婿側に負けないくらい口のうるさいのがそろっていたから、コック長の小野正吉さんは肩の荷が重かったのではないかと思う。しかし、さすがに神経の行き届いた料理で、平安の間いっぱいのお客でも、スープは熱いのがいっせいに出てきたし、スモーク・サーモンも牛肉もとびっきりいい材料が使ってあった。席上、テーブル・スピーチも、川口松太郎、糸川英夫、安岡章太郎と面白いのがつづいたが、そのあとで、新郎側のゲストとして日本料理屋のご主人が立ちあがって、
「邱永漢センセイは、今から二十年前に、日本料理は滅亡するとお書きになりましたが、たった一人のお嬢さんを日本料理屋にお嫁にやる気になったのは、何か心境の変化でもきたしたのでしょうか。それとも日本料理がこれから栄えるようになると、判断を変えたからでしょうか」
と挨拶をした。私はすぐにも立って弁明をしたかったのだが、いかんせん、花嫁の父をつとめていては、ジッとこらえるよりほかない。それにしても、二十年も前に書いた文章をよく記憶しているものだな、と改めて感心した。結婚式の翌日、家へ挨拶にきたうちのお婿さんは、
「センセーが日本料理は減亡するとおっしゃったのは本当のことだったのですよ」
お婿さんになっても、昔の呼び方が改められずに、センセーといったのが私にはおかしかったが、彼の説明によると、「二十年前、浜町河岸には三十何軒も日本料亭があったが、今はうち一軒しか残っていないのを見てもわかります」
料亭をひいきにする人たちは、私が観察していた通り、お年寄りばかりで、お年寄りは歳と共に死んでいくから、料亭そのものもさびれていく。赤坂で料亭ばかり並んでいた通りにしても、一軒また一軒と廃業して、今ではすっかりバーやクラブの立ち並ぶ歓楽街に変貌してしまった。たまに昔の名前が残っている店に入ってみると、カウンター式になっていて、昔とは趣を異にしている。やはり時代の移り変わりには勝てないのであろう。
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