その点、梅崎さんは、檀さんのような八方破れでなく、もっと小心に自分のぺースを守る人だった。だからおそらくは檀さんに負けない貧乏生活の体験もしただろうと思うが、出版社に勤めていた女性と手堅い恋愛をして、その人を奥さんに迎えた。梅崎さんの奥さんと私はそのときが初対面であったが、経済的にもしっかりしていそうな奥さんだから、梅崎さんは自分の内面生活と、社会人としての常識のバランスをとるのに苦悩していたのではないか。もちろん、立ち入ったことは私にはわからないが、シラフで人と話をするのが難儀らしく、酒という船に乗り込んで、酒にいつも身を委ねているような感じである。私の家に見えたときも、たちまち酒に酔いつぶれて、ちょうど私の隣家に住む北海道の弁護士の奥さんが色紙を持ってきて何か書いて下さいと頼んだら、
「羊踏破菜園」と書くつもりが、「羊」という字を「美」と書いてしまった。本人はすぐに気がついて、
「やあ。しまった。羊が股をひらいてしまったから、こりゃメスの羊ということにしよう」
とそのままあとをつづけて書きあげてしまった。おそらくこの色紙はいまも北海道の知人の家に愛蔵されていると思うが、私はこういうところに梅崎さんの本領が覗き見られるような気がして、ユーモアを感ずると同時に心湿まる思いがした。
「羊踏破菜園」とは、私が当時ずっと『あまカラ』誌に連載していた「食は広州に在り」の中の一篇のタイトルである。なぜこういうタイトルがついているかというと、昔、野菜ばかり食べている人がいた。あるとき、人にご馳走になって、羊の肉を腹いっぱい食べたら、夢に五臓の神が現われて「羊踏破菜園」と告げたそうである。以来、ふだんあんまりうまいものを食べていないものが急に腹いっぱいご馳走になって、いま胃の肺がびっくりしているところです、という意味で、他人の家に招待されて盛大な歓待を受けた時に感謝の意を表する言葉として使われるようになった。

梅崎さんは、自分は邱さんの作品はちゃんと読んでいますよ、ということをほのめかすと同時に、本当にご馳走さまでした、という感謝のしるしを、一枚の色紙の中にそれとなく表現しようとしたのである。しかし、そのはにかみを酒でまぎらそうとする人生態度をその後もふっきることができなかったので、「幻化」の小説の題名通り、夢まぼろしの人生をあっという間に駈足で走り去ってしまった。

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