その小島先生は、年齢的には私などより二回り半も年上だし、当時、直木賞の選考委員もやっておられたから、前回の直木賞の候補にのぼって落選した私の家へお招びするとなると、次回直木賞の事前運動をやっているように見えないこともない。安岡章太郎流にいえば「メシで釣って文壇に乗り出す」工作の一環をなすものであるが、実際につぎの直木賞選考委員会で、私の「香港」という作品が候補にのぼったとき、小島先生は反対にまわったそうだから(小島先生自身は反対しなかった、と人づてに人に伝えてこられたが)、仮に事前運動をしていたとしても、あまり効果がなかったことになる。そんなことよりも、薄井恭一さんが小島政二郎夫妻を案内して、多摩川べりの私のあばら家においでになるときかされたとき、私は「新妻鏡」の作者に会えると思って胸が高鳴った。小島先生は、『あまカラ』誌に「食いしん坊」と題してエッセイを連載しておられ、同じ雑誌で、私も「食は広州に在り」を連載していた。雑誌というのは不思議な容れ物で、載せるとなれば、大文豪の作品も駈け出しの作品も、同じ一つの容れ物の中におきめられてしまう。むろん「食いしん坊」は、のちに文藝春秋から出版されて、ベストセラーズになったくらいだから、毎号、雑誌の巻頭を飾っており、私の文章は、福島慶子さんとか戸塚文子さんとか小林勇さんたちと並び大名になっていた。それでも面白ければ、人は読んでくれるし、書いたものが長く売れるようになるのだから、文章というものは片時もゆるがせにできないものである。

その日は、記録によると、昭和三十年十一月二十二日だから、私が第三十四回直木賞を受賞した翌三十一年一月末からわずか二ヵ月ばかり前のことである。私の姉の臼田素娥は、のちに料理研究家として、新聞やテレビにたえず登場するようになったが、当時は、一回目の結婚に失敗して、拳闘家の臼田金太郎と再婚し、中野でピーチガムというチューインガムの工場を経営していた。新しく私の義兄になった臼田金太郎が、ウエルター級チャンピオンとしてボクシング界に初登場したのが大正十三年、私の生まれた年のことである。『拳闘五十年史』を読むと、その第一ぺージに出てくるくらいだから、文字通り草分け時代のチャンピオンであろう。彼が活躍をした昭和初期に、ファンとして一所懸命応援してくれたのが、小説家の子母沢寛先生だった。

また私の姉は、戦前、目白の女子大に留学に来ていたが、母に命令されて、当時まださほど有名ではなかったけれど、麹町三番町で草月流道場をひらいていた勅使河原蒼風氏の門を叩いた。

その関係で、いろんな人と知り合いになっていたが、そのなかには戦後、ラジオやテレビで売り出した三木鶏郎、鮎郎兄弟のご両親にあたる弁護士の繁田保吉夫妻もあれば、小説家白井喬二、井上鶴子夫妻もある。殊に白井先生ご夫妻にはたいそう可愛がられ、女子大を卒業したあと、一時期、白井家に居候をしていたこともあった。そういう関係で、いくらかでも私の小説稼業のプラスになればと思ったのであろう。姉夫婦は小島先生がおいでになるのなら、子母沢寛先生のご夫妻と白井喬二先生のご夫妻もお招びしましょうといって、自分たちで電話をかけてくれた。

白井夫人は何かの所用でその日はどうしても来られなかったが、小島夫妻は薄井夫妻に案内され、また子母沢夫妻と白井先生は、うちの姉夫妻に案内きれて、私の多摩川べりの小さな家へ気軽に顔を見せて下さった。

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