六、メシで釣って文壇へ
いくら私が物をズケズケいう人であっても、まさか初めてうかがった安岡章太郎氏の家で、
「ずいぶん貧乏生活をしていますねえ」
と面と向かっていうわけはない。したがってそれは、私が普通の日本人の小説家と違った金銭感覚の持主であることを描写するための布石みたいなもので、私としては笑って聞きながすよりほかないのである。この際、安岡氏の描写に従って、もう少し先をつづけることにしよう。
―― もっとも、そのころは邱永漢も、あんまり大きな家に住んでいなかった。ダイニング・キッチンの他に二部屋ほどの小住宅だった。彼はそこに奥さんと子供二人、お手伝いさんなどもいて、じつにゴチャゴチャと大勢で住んでいたのであるが、どういうわけかあまり狭苦しいという感じはしなかった。のみならず彼は、そこに十人ほども客を呼んで、しばしばご馳走をした。
「日本人は食いしん坊だから、メシで釣って文壇に乗り出す」
というのが、そのころの彼の持論であったが、もし本気でそう考えていたのなら、これは彼の計算ちがいである。いくら日本の文壇の諸先生が食いしん坊のお人好しばかりだとしても、ご馳走のお礼に邱を直木賞作家に売り出したり、原稿をドンドン書かせたりするわけがない。彼が文壇で活躍したのはご馳走の才より文筆の才によることは明白である。おもうに彼は異境にあって、日本人の社会で暮らすことに、有形無形の負担を感じており、ご馳走政策はそうした心の負担やらサビシサやらをまぎらわす手段の一つであったにちがいない。
もっとも本人が好奇心旺盛な食いしん坊であることは、彼の言うとおりであって、招かれた邱の会食で、私は佐藤春夫先生御夫妻や檀一雄氏、井上靖氏など、まえから存じ上げている方々とも同席したが、はじめての人にもたくさん紹介された。なかには一とクセも二たクセもあって人付き合いの決してよくはなさそうな人たちもいて、こういう人たちを邱は一体どうやって知り合い、どうやって自分の家に招びよせたのかと異様な気がしたくらいであった。しかし、どんなに知らない同士とでも一つの食卓をかこんでメシを食ううちに、やがてイヤオウなしに親近感を生じてくるのは、われわれの胃の腑の一種機械的な反射作用であろう。このメカニズムを邱が充分に心得て操作しているのであれば、彼のご馳走作戦はやはり成功であったといえるであろう。――
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