なるほど亡命生活者というのは、こういうふうに頑健な身体と、ヌケメない頭脳のはたらきを持たなくては、やって行けないものかと、私は「亡命」という言葉のヒロイズムにまどわされていた自分を反省した。
とにかく部屋へ上ってもらい、それからどんな話をしたか、もう覚えていない。たぶん文学や小説の話をしたんだろうが、記憶に何も残っていない。おぼえているのは紅茶を出すと、この亡命青年が、
「紅茶はリプトンがいいとはかぎらない。日本の紅茶は自然の風味とコクがあって、なかなかいい」
といったことから、やがて日本の産業全般が、いかに将来有望かという話を、ながながとやりはじめたことだ。(中略)
私も清貧に甘んじるのでなければ善い文学は生まれないとは必ずしも考えてはいないが、文学と貧乏は必然的なつきものだと思っていた。そのことを言うと、邱は、
「いや、貧乏なら、わたしも誰にも負けないくらいいろいろの貧乏生活を知っているけれど、わたし自身はいくら貧乏しても、すぐにそこからヌケ出して金持になってしまうのでね」
と、暗にその生活体験のゆたかさを示すように言った。たしかに彼の眼からは、私の考えている貧乏ぐらしなど、はなはだ甘っちょろいものに違いない。私は、そういう彼から真の貧乏とはいかなるものか、その実体をきかせてもらいたいと思った。しかるに彼は、貧乏よりも、金持がいかにして大金持になったかという話ばかりをとめどもなく繰り出すのである。そして、あまり浮かぬ顔をしている私をハゲますように、
「それは誰だって、はじめのうちは貧乏よ。……いま話した大金持のXさんだって、つい三、四年前まではとっても貧乏でね、家の中には、なーんにもなくて、まァ言ってみれば、こんなもんだったのよ」
と、眼をクルリと動かして部屋の様子をながめまわし、指先でテーブルをコツンとはじきながら言った。
私は驚いて、笑い出した。当時、私は女房と二人で多摩川べりの家に、板敷の洋間と三畳のタタミの部屋とがつながった奇妙な一室を借りて住んでいたが、(中略)これでも一年前までの大森の下宿の四畳半の部屋にくらしていた頃に較べると、飛躍的な大進歩をとげており、夢にも「とっても貧乏」などとは思っていなかったのである。――
安岡さんは、小説家的な誇張で、私が安岡さんの貧乏生活を慰めたように書いているが、本当のところ、私も似たりよったりの耐乏生活であった。強いていえば、私の場合は、国際的なスケールのそれだった、ということであろうか。
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