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27.僕と邱先生が出会った日、そして僕が北京を好きなわけ ♯1

みなさんこんにちは。
今日も黄砂混じりの春風が妙に心地いい一日です。
北京より、皆さんの役に立つ情報として三全公寓のお話をしていくこのコラム。
時には、羊肉の美味しいところや、新しく建っていくビルのお話、
交渉術、貰ったお給料のお話、女の子が可愛くなっていく話等々。。
いつの間にか、本題から脱線した話しにまで及んでおります。

そして、今回のコラムも毎度のように脱線しておりますがどうぞ、ご容赦下さい。

私がどうして北京に来たのか?
今更ながら、私と先生が出会った日の事を
履歴書風に書かせていただきます。

2005年8月 
初めて上海旅行へ行き、中国の活気の片鱗に触れた私は
日本に帰るなりすぐさま書店に走り中国に関する書籍を手にします。
偶然にも手に取ったその本は、邱先生の「中国で稼ぐヒント」でした。
その本に先生は前書きとしてこう書かれています。

「アジア的規模で仕事をしたいと考えている人は
先ず日本人の職人的気質を生かすことと、
次に人の上にたって経営を目指す資質をもっているか自分に聞いてみることです。
そうした能力と情熱があると思えば先ず第一の関門はパスできます。
但し、あると思えば、
その瞬間からそれに一歩近づく体制を整えて実行に移してください。
人生は短く、グズグズしているヒマはないのです」

集約されたこの前書き部分の最後の文章に、太線を引き
こんこんと考え
「どうすれば僕も中国へ行けるのだろう?」
と何度も何度も考えました。

当時、私の頭の中は、なんとしてでも中国に行きたい!
という情熱のみでしたが、不躾な履歴書ながら邱先生に送る
そう決意をし、何度も繰り返し同じ履歴書を書きました。

勿論、送った時点で、コネクションなど無く、
中国事情も一切知りませんでしたが、
既に中国には行くつもりで腹は決まって居ました。

改めて、そんな私になにが出来るかと考えた結果、
当時住んでいた東京の賃貸マンションの契約解除の申請をし、
自分でも中国に行くにはどうすればよいか?
という模索状態に、いや後がない作戦に打って出る!
という、今考えると博打的な考え方ですが
その時はこれが私に出来る精一杯の事だと考えていたのでした。
そうでもしないと、住み慣れた街、環境を変えるという原動力に
繋がらないと考えたのでした。

2005年9月
いつの間にか薄れ掛けていた先生の事務所に送った履歴書を
ふと思い出した、忘れもしない、24歳の誕生日を迎えた次の日、
車を運転しながら見慣れない電話番号からの着信。
普段なら見知らぬ番号は出ない方ですが、
この着信には不思議な力を感じたのか、
車を脇に止め、出てみたのです。

すると、待望の邱先生の事務所より
面接のアポイントのお電話です。
その日は丁度、先生のお時間が空いているという事で、
邱先生と面接をして頂く事に。
面接はあっという間で、正味1時間程でしたが
先生からお言葉はこうでした。
「住んでる家を解約して中国に行けないか探してるの?
おもしろいね!次、北京に行く時に一緒に行きますか?」

キャリアも無い、言葉も出来ない、知識も無い
唯一持ち合わせていたのは、運だけだったかも知れません。
後が無い私には思ってもいない言葉でしたし
なによりも嬉しい言葉だったのです。
頂いた言葉もその時は夢うつつでしたが
ひょっとしたら、僕の人生変わるのかも?
と密かに期待に胸を膨らましていました。

ここから、私の北京生活が始まるのです。

次回に続く


2008年3月26日(水) <<前へ  次へ>>