先週、たくさんの方に応援メールをいただきました。
心よりお礼申し上げます。
本当は、今週から平常のコラムの内容を書こうと思っていたのですが、
思うところあり、もう一度だけ地震のことを書きます。
正直に告白すると、先週のコラムを書いていたときは、
私はあまり正常な心の状態ではありませんでした。
地震そのものについてはなんてことはなく日本でも経験済みですし、
そんなことにそもそも動じることはありません。
しかし、ほんの数十キロ先であまりにたくさんの方が次々と亡くなっていくこと、
成都の数百万の市民の心が大混乱におちいったこと、
その群集心理のおそろしい影響が少なからず私にも影響をあたえ、
自分のわからないところで、平常心を失っていました。
地震から10日ほどたち、今は頭がクリアになって、目が覚めてきました。
そして、私自身、今週だけでいろいろな学びがありました。
先週のあたまの社の会議で、
企業としての募金活動について社員から提案があり、それについて議論をしました。
一方、他の社員からは「やらないほうがいい」という声のほうが多いのに驚きました。
その理由は、今、募金は成都市内のあらゆるところで可能だし、
うちが一企業として募金を集めたても、
その基金の使途に不透明さが残り、顧客の不信感をおありかねない、
ということでした。
実際、成都のあるレストランでは、
従業員が募金箱に募金をしているところを
自分でわざわざ動画に収めてメディアに流し、
その後募金されたお金を
ちゃっかり自分のポケットに戻しているところまでもが
ネットに流失する騒ぎまであったそうです。
また、家が全壊した従業員の家族へ
ほんの少しの見舞金を渡そうという議論をしたときも、
その配布の仕方について、
「全員被害者なんだから一定額の一律配布がいい。」
「いや、被害の程度に応じて払うべきだ。」
「いや、勤続年数に応じて払うべきだ」
「一時金ではなく、長期的にサポートする意味をこめて、
今後数ヶ月に渡って少しずつ出してやるのがいい」
等々ありとあらゆる意見がでるのでした。
しかしその一つ一つについて、
「被害状況を無視した一律配布で本当にいいのか。」
「そもそも見舞金なのに、被害や勤続状況で差をつけていいのか。」
「長期的に配布したときに、万が一その従業員の働きが急に悪くなったとき、
企業としてどうするのか?」
そして挙句の果てには
「少なくもらった人間がたくさんもらった人間をねたむのではないか。」
「普段の給与に対して見舞金の金額が大きければ、
もらえなかった人間の勤労意識が著しく落ちる」
といった問題まで噴出してきました。
今、思うのは、人を助けることは非常に非常に難しいということです。
人のためにお金を集めることも、そしてそのお金を使うことも、
それを正しくやろうとすればするほどとてもしっかりとした思想が必要です。
よく邱先生は「お金は稼いで半製品、使って完成品」といいますが、
まさしくお金を使うことの難しさを感じました。
今、成都の街は地震後2度目の混乱を越え落ち着いた状態にあります。
が、いたるところで地震救済の垂れ幕がかかっています。
そんな中、市民の中には、地震に疲れはじめ
こういった垂れ幕やニュースをあまり耳にしたくないひとも増えてきています。
我々一企業が地震救済に対してインパクトのあることをすることはとても難しい。
今はフードカンパニーとしてそしてサービスカンパニーとして、
人間の生きる力の根源となるおいしくて安全な食事と、
人間の生きる活力となる最高の笑顔をお客さんに提供することが
世の中のためになると信じて、本業に打ち込もうと思っています。
来週からは普段のコラムに戻ります。
PS
メールをくださった皆様、特に阪神大震災やプーケットの大津波を経験され、
ご自身の経験までつづって応援してくださった皆さん、重ねて心からありがとう。
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