第1193回
天津新港柳田1人置き去り事件

今はまだほとんどが更地である
未来の国際金融センター「濱海新区」を見た後、
私は、塘沽の「勝利賓館(しょんりーぴんぐぁん)」という
ホテルに泊まることにしました。

この「勝利賓館」、約20年前に
「天津新港柳田1人置き去り事件」が発生した、
私にとっては忘れられないホテルです。

あれは1991年。
私が丸紅石炭部で働き始めて3年目に
中国のコークスをインドに輸出する、
という契約を結ぶことができたときでした。

いい加減で言うことがコロコロ変わる中国人と、
契約条件からちょっとでもはずれると、
容赦なく損害賠償を求めてくるインド人との間で
日本人が板ばさみに遭う、という
今から考えても恐ろしい契約だったのですが、
この契約のおかげで私は国際ビジネスの厳しさを知ると共に、
ちょっとやそっとのことでは動じない度胸を
身に付けることができました。
このビジネスを私にやらせてくれた当時の上司には、
今でも心から感謝しています。

さて、私はインドに売る
山西省のコークスの船積に立ち会うために、
天津新港に出張し、当時は天津新港で
一番良いホテルだった「勝利賓館」に泊まりました。
しかし、船積予定の日が来ても、
船が天津新港に到着しません。
どうも前の航海で故障が発生したらしく、
ドックに入って修理をしている、ということのようです。

これで怒ったのが買い手のインド企業です。
「契約通りの納期でコークスが届かないと工場が止まる。
工場が止まったら巨額の損失がでるが、
それは丸紅が賠償してくれ」と言い出したのです。

私は「勝利賓館」からコルカタに直接電話をして
現状を逐一報告し、インド企業の理解を求めたのですが、
その間も、船をチャーターした中国企業が報告してくることが、
二転三転したり、前後の辻褄が合わなかったりで、
その度にインド人から厳しくその矛盾を突かれました。

そんなことを数日繰り返していたのですが、
ある日、一緒に北京から来て通訳をしてくれていた
丸紅北京支店の中国人スタッフが、
「柳田さん、私は北京にたくさん仕事がたまっていますので、
もうお付き合いできません、さようなら」と言って、
北京に帰ってしまったのです。

当時の私は中国語は全くわかりませんし、
「勝利賓館」も天津新港で一番良いホテルであるにも関わらず、
スタッフは誰も英語が話せません。
私は誰とも意志の疎通ができない状態で、
天津新港に1人、置き去りにされてしまったのでした。


←前回記事へ

2010年6月2日(水)

次回記事へ→
過去記事へ
ホーム
最新記事へ