第395回
大連在住10数年
私はこの4月で北京在住丸9年になりました。
私は大学を卒業した後、
日本で7年しか働いていませんので、
いつのまにか、北京で働いている時間の方が
長くなってしまいました。
北京で「北京に住んで丸9年です」と言うと、
だいたい「長いですね」と言われます。
北京に住む日本人は、
その大部分が日本企業の駐在員か留学生ですので、
長くても4-5年で日本に帰ります。
10年近く住んでいる日本人は、そんなに多くはいません。
これが、大連に行くと、様子が変わります。
大連の街中にある
森ビルに入っている日本企業の方と話すと、
あまり北京と変わらないのですが、
大連の街から少し離れた開発区に行くと、
大連在住10数年という日本人の方がたくさんいます。
大連は中国の中でも、日本語を話せる人材が多く、
労働力も安価でしたので、
1984年に作られた開発区には、
早い時期から多くの日本企業が進出しました。
大連在住10数年、というのは、
開発区での工場立ち上げ時に日本企業から派遣され、
それからずっと工場の操業に携わってこられた方々です。
日本の本社としても、
「大連の工場は、あいつに任せておけば安心」
という事なのでしょう。
当時の日本は、
1985年のプラザ合意後の急激な円高で、
輸出産業が乾いた雑巾を絞る様な、
コスト削減努力を続けていました。
しかし、ぎりぎりまでコストを削減しても、
急激な円高の進行に耐え切れなかった企業は、
海外にその生産拠点を求めました。
タイミング的にも、条件的にも、
大連は、日本企業の海外生産拠点として
うってつけだったのでしょう。
しかし、
「安価な労働力を背景にした
世界の工場としての中国」
と同時に、
「地球上に残された最大且つ最後の
巨大市場としての中国」
が注目されるに従い、
周辺に大きなマーケットを持たない大連よりも、
背後に長江デルタという1億人市場を持つ
上海周辺が注目される様になってきました。
日本企業の進出先も、
時代の変化に伴って、変わってきています。
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