第96回
ブランドケーエイ学39:セグメントよりも個人。

さて個人の「発生」が、社会全体の「進化」を追い越してしまうことから、全体の将来を占うには、進んだ人をみつけて、その人のことを観察するに限る。
美術のピカソや、音楽のマイルスデイビスなどを例にあげたいような気もするけれど、それらの分野では一家言ある人も多いだろうから、ここでは力説しないことにしよう。

商品企画も、広告も、いちばん大事なことは、だれをターゲットにするかということだ。この場合、ターゲットを「群」で考えるのが普通なわけだが、「群」で考えると一見わかりやすいように見えるけれども、その実、本質を見失うことになることになるのじゃないかという気がしている。

マーケティングという言葉からは、アンケート調査などの市場調査がイメージされるわけだが、数量的な調査の欠点は、一般大衆に聞いて、数量が多ければ大きな存在と考えることにある。
しかし一般大衆には、意見があるようでいて、ない。流行れば買うし、持ってなければ不安だから買うけれども、なぜ買うのかはよくわからない。主体性はないけれども、最大のボリウムゾーンであり購買力がある以上、マーケティングとしては追いかけるべきなのだろうか?

ぼくの考えでは、そのような一般大衆を対象として、いくら聞き取り調査したところで、ろくなヒントは得られない。彼らは追随しているにすぎない。
それよりも商品によって、ある特定の人を想定し、その人に会いにいったりして、商品を選ぶときの基準とか、ヒントとかを根ほり葉ほり聞く方がいい。
あんまりマニアックな人でもだめだけれど、その人の考え方に納得がいって、消費のリーダーたり得る人であれば、その人の考え方をよく学ぶことが重要だと思う。

「この商品は30代の女性がターゲットです」というふうに商品がでてきて、その広告とか販促方法とかをぼくらが必死に考える。
しかし同じく30代の女性と言っても「あの人は買わないだろうな・・・この人はまた別の商品を選ぶだろう・・・」と考えると、「セグメント」とはマーケティングの落とし穴みたいなものだと思う。
「自分であれば、またあの人であれば必ず買う」といえるような、確信の持てる商品でなければ、いまどきの市場で、ブランドづくりはできないのではないか。


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