第2005回
正食の始祖・桜沢如一の「青春時代」(3)
「もしかしたら、若き日、
マクロビオティックの始祖・桜沢如一さんと、
関根さんのお祖父さんは、地元・新宮の短歌仲間で
知り合いだったかも知りませんよ」という手紙が、
和歌山県新宮図書館司書の山崎泰さんから舞い込んできた――
さらに、マクロビオティックや桜沢さんに詳しい、
前日本CI協会専務理事で、
現正食協会編集委員の花井陽光さんからも
「明治26年生まれの桜沢如一が
関根さんのお祖父さんの沖野岩三郎をはじめ、
新宮の社会主義者や進歩派文化人と親交があったとすれば、
当時はまだ18歳程度ですから、
相当早熟な少年だったことになります。
そんな馬鹿なと思いつつ、
でももしかしたらと調べたら、ありました。
これは、前に日本CI協会で復刻した著書「わが遺書」がありますが
その冒頭部分に短歌雑誌「砂丘」のこと
新宮の歌人の下村悦男・和貝彦太郎の名前も出てきます。
面白いですね。
ご縁というものは
こんな風に知らないところでつながっているんですね」
という情報が流れてきた――、この不思議な縁の話の続きです。
というわけで、そのなぞの鍵を握る
桜沢如一・著「わが遺書」(昭和13年刊)の復刻本がないか?
東京の日本CI協会に確かめてみました。
すでに、この本は絶版になっていたのですが、
日本CI協会会長の勝又靖彦さんのご好意で蔵書の中から
貴重な一冊を分けていただくことが出来たのです。
ありがたいことでした。
送られてきた、桜沢如一・著の詩歌集「わが遺書」の
序の部分を開けると、たしかに、
その頃、桜沢さんは京都にいたのですが、
故郷・和歌山・新宮の歌人仲間たちと
「砂丘」という雑誌を創刊したとあるではないですか?
「《「わが遺書」のはしがき》
私の此の世に於けるただ一つの願ひは、
実は、一篇の詩歌集を残すことであった。
それもごくささやかなー詩と歌を
二、三百位集めた――ものであった。
若い頃――17才の頃から私は詩歌の世界に入った。
18、9才の頃から京都で詩歌の雑誌『砂丘』を作って出した。
亡き母の故郷紀伊新宮の二人の友人
中野緑葉、下村悦夫が協力者であった。(略)
その関係から与謝野晶子さんの雑誌『スバル』に歌を出し、
間接に晶子さんに歌を見て貰った晶子さんは私の歌を見て、
『この人は女でせう』と云はれたと云ふ。
私はそれ位気の弱い、涙もろい女性的な少年であった(略)」
なるほど、びっくりしました。
たしかに、桜沢さんの少年、青年期は、
新宮の歌人仲間のネットワークの中で、
その豊かな情感が育まれていた
ということを告白しておられました。
僕の祖父・沖野岩三郎が紀州新宮に暮らした時期とは、
若干、ずれるようですが、たしかに短歌ネットワークを通じて、
直接ではないにしても、
桜沢如一と沖野岩三郎は繋がっていたようです。
新宮図書館の山崎さんの方も
そのあたりを研究しておられるようで、
さらに「朱光土」という短歌雑誌に、
新宮の歌人・中野緑葉の書いた「熊野歌壇の回顧」という記事の
コピーを送ってくれました。
「熊野歌壇は、そのときもなほおとろへなかった(略)。
和貝氏(注・和貝夕潮)なり、
下村君(注・下村悦夫)が東京に去った
半歳ばかり後に(略)短歌雑誌『砂丘』を発行することになった。
当時たまたま知己となった京都の桜澤涙声君(注・桜沢如一)が、
その知友辻春一君をたづねて来新した(新宮に来た)際、
私は桜澤君にあって、雑誌発行の計画を語った処、同君は
『新宮と京都でやらうじゃないか』と云った。
そして印刷は京都で行る事になった。
和貝氏や私やその他の人々の
協力でやっと第一号を出した時には、
かなりの原稿が集められた(略)」
奇しくも、奇妙な縁が積み重なって、
正食の始祖・桜沢如一さんの
「青春時代」の素顔が明らかになったのです。
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