元週刊ポスト編集長・関根進さんの
読んだら生きる勇気がわいてくる「健康患者学」のすすめ

第1696回
「ぼんやりした不安」に思う

先日、都知事選に勝利した石原慎太郎さんが、
さかんに、選挙民に「安全と安心」に訴えたことが、
多くの支持を得たポイントだといったことを強調していました。
好き嫌いはあるにしても、石原さんの持つ強烈な個性やら、
都知事としての実績やらが、
多くの支持を得た要因といえましょうが、
僕は、なんとなく、この「安全と安心」という、
一見、情緒的なキーワードが持つ響き――、
これが、いまの有権者、とくに無党派層といわれる庶民の
「ぼんやりした不安」の心情に
共振したのではないかと思ったわけです。

政治家としての石原さんの「安全と安心」とは、
国家レベルの「防衛と治安」を強調することかもしれませんが、
むしろ個人レベルの「ぼんやりした不安」を解消してくれる
「安全と安心」のイメージを、
石原慎太郎という
カリスマ・タレントに託してしまったのかもしれません。

どの候補も掲げる「福祉と平等」という
優等生的というか、論理風のマニフェスト・キーワードより、
ずばり、この「安全と安心」とい、何気ないキーワードが、
有権者の心の襞に共振したのではないかと感想を持ちました。

多くの人を幸せにする政策とは、
より論理的にマニフェストすることが、
この情報過多社会では重要ではありましょうが、
言葉だけが浮き上がって、庶民の心情からかけ離れると
無味乾燥な機械的キーワードとなって、
訴求力を失わせるものなのですね。
庶民感覚とは、じつにしたたかに“扇動者たち”の
「ウソ」や「方便」を見抜くパワーを秘めているものなのです。
マニフェスト、マニフェストと叫べば叫ぶほど、
かえって、不信は増大する、
いや、ますます庶民の
「ぼんやりした不安」を広げるのではないか?

選挙の結果自体に、あまり興味はありませんが、
いまほど社会のレベルでも個人のレベルでも、
これほど「ぼんやりした不安」が気になる時代は珍しいでしょう。
家庭や会社、地域社会、国家までが「鬱病」になりかねない、
とくに、先行き不透明な経済的不安が引き起こす、
情報過多の時代とは、ずばり「不信と不安」蔓延の時代ですから、
「安心と安全」ほど、
直截なキーワードはなかったことになります。
僕は、こんどの選挙の票数を
ぼんやりと眺めながらそんな感じを持ちました。

さて、今から70年以上も前、作家・芥川龍之介は36歳の若さで
自らの生命を絶ち、遺稿「或旧友へ送る手記」に、自殺の動機は、
将来に対するただ
「ぼんやりした不安」であった――、と記しています。
それから数年後、アメリカの株価大暴落、
いわゆる「世界大恐慌」が発生。
日本にも未曾有の倒産・失業と社会不安をもたらし、
やがて太平洋戦争の勃発と敗戦となりました。
芥川龍之介の「ぼんやりした不安」は、個人のレベルを超えて
社会、国家、世界全体の混迷へとつながったわけです。
もちろん、いまの「ぼんやりした不安」
と芥川の時代とは要因が違います。
最近は、少子高齢化に伴う年金受領額の減少と、
保険料・医療費・税金の負担増に始まる家計不安から、
民族間紛争や資源枯渇、地球環境破壊といった世界経済不安まで、
さらに、インターネットの普及による情報過多が、
個人の心の不安を、いっそう、広げています。

いずれにしても、人生の「不安と不信」とは、より複雑に
個人個人の心の襞に食い込んで、日々の生活ばかりか、
「生存」いや「いのち」そのものに、
「ぼんやりした不安」を
感じさせるにいたっているのではないでしょうか?
ガンだけではありません。近代西洋医学では手に負えない、
いや、政治行政などではどうすることも出来ない、
得体の知れぬ「不安難病」が蔓延しているではありませんか?

ところで、小誌「いのちの手帖」では、ガンのみならず、
重度の鬱病、動脈瘤破裂から、
ベーチェット病、ヒルシュスプルング病などなど、
現代の不安難病を克服してきた患者さんの
手記を掲載させていただいております。
「いのち」そのものの「ぼんやりした不安」を乗り越えて
いかに「安全と安心」ならぬ、心の「安穏」を掴むか?
そうした心のマッサージ・マガジンが
「いのちの手帖」だと思って編集しているわけです。


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2007年4月19日(木)

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