元週刊ポスト編集長・関根進さんの
読んだら生きる勇気がわいてくる「健康患者学」のすすめ

第1218回
「死に方用意」とは

前回、映画「男たちの大和」の感想を書きました。
“実物大・戦艦大和”の艦上で演じられる
「60年前の日本」からの問いかけは、
「歴史忘却症」に陥っている、僕たちの魂に、
ちょっとした「渇」を入れてくれるはず――、
「戦争における人間の生死の意味」だけでなく、
「連綿と続く日本人の魂のアイデンティティとは何か?」
を問いかけた――、
と書きましたが、その感想の続きです

いまの世の中、戦闘下の生死の覚悟や、
戦時下の日本人としてのアイデンティティとは
なかなか計り知れないものがありますが、
この映画を観ながら考えさせられることは
ほかにも、たくさんあるはずです。

とくに、出撃する戦艦大和の甲板で、
15歳、16歳の少年兵士たちが、
「お母さ〜ん」「お元気で」「さようなら」と、
最後の別れを洋上に向かって、
泣き叫ぶシーンがあります。
そして、傍らにある黒板には、
ただ一行、「死に方用意」と大書されているのが印象的です。
死を賭しての特攻、いまふうにいえば
“自爆行為”を覚悟することを
戦時下では「死に方用意」といったようですが、
いのちの極限状態にあるだけで、
その言葉のむなしさに観客の胸が痛みます。

幸運にも、これまで、僕たちは、
戦時の「死に方用意」の覚悟を
迫られることがなかったわけですが、
翻ってみれば、
この60年前の青年たちの
「死に方用意」が礎となって、
いまの平和が蘇ったとみることも出来るわけです。

しかし、僕は、もう一つの生死のドラマとして、
「男たちの大和」という映画を鑑賞していました。
たしかに、戦時の「死に方用意」と、
平時の「死に方用意」は違うように見えますが、
違うのは時代状況で、
いのちに関わる一人一人の覚悟は同じ――、
というのが僕の感想です。

いのちを絶つ相手が、
「目に見える爆弾」と
「目に見えない爆弾」の違いに過ぎません。
人生の「死に方用意」は、
ほんとうの意味で「生き方用意」ともなるわけです。
平時といえども、
さらに、怒涛のように襲い掛かる、
公害、汚染、食害、薬害、情報、感染、人災、
天変地異といった
目に見えない「爆弾」の前に、より頻繁に
いのちの「死に方用意」を迫られているのではないか?

ま、小説や映画は、
目に見えて「いのち」の状況を極限に追い詰めてこそ、
作品として秀作となるわけですが、
その行間に、普遍的ともいえる
「いのちの尊さ」を感じたのは、
この映画のプロデューサー・角川春樹さんの持つ
「魂の連綿性」へのこだわりというか、
エネルギーの故なのか?
僕が、銃弾という「爆裂弾」ではなく、
ガンという「汚染弾」にさらされて、
「死に方用意」を覚悟させられたからなのか?

ともあれ、「死に方用意」を覚悟して、
それを乗り越えるエネルギーが、
一人一人にとって大切だということでしょう。
「死に方用意」とは、
平時のいまだからこそ、思い起こすべき、
じつに直截な
「いのちのキーワード」ではないでしょうか?


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2005年12月27日(火)

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