第2809回
油断大敵、今の日本にその後遺症が
日本が世界中から認められるようになったのは、
日本人が物づくりに熱心で、
メイド・イン・ジャパンが国を越えて
世界中から認められるようになったからです。
そうなってからまだ半世紀もたっていません。
私が小説家として直木賞の受賞をした昭和31年の頃は、
日本が敗戦から漸く立ちなおって、
外国から原料や素材を輸入して、
繊維やミシンやカメラを見様見真似で加工して
手間賃を稼ぎはじめた頃でした。
白黒のテレビが1台15万円もして、
個人の収入ではとても手に入らない時代でしたから
日本製品はまだ「安かろう、悪かろう」から
抜けきれない時代でした。
そうした日本製品にいち早く門戸をひらいて
市場を提供してくれたのがアメリカで、
日本の衣料品や雑貨はアメリカのデパートの
特価品売場におかれていました。
カメラだって、ミシンだって皆、世界の有名品のコピーで、
その頃、知りあったリコーの創業者市村清さんは
頭をかきながら、外国まで売り込みに行った日本人が
足元を見られて値切り倒される話をしていました。
私はそれに対して
「なにも恥じることはありませんよ。
安かろう、悪かろうだって、
それを必要とする人たちが世界中にたくさんいるのですから、
まずそういう人たちをお客にすることから
スタートすればいいんです」
と答えて、
「ホオー、そんな考え方もあるんですか」と
とても意外な表情をされたことがあります。
あれから30年ほどたって、
日本のさる時計メーカーが
台湾の工業団地に進出するようになりました。
最新技術は日本の本社に残して、
手間のかかる安いパーツをつくる機械だけを移そうと言うので、
私は
「それは間違いじゃありませんか。
最新鋭の技術をコストの安い所に移すべきですよ」
とアドバイスしました。
どうしてかというと
採算にあわなくなった仕事は発展途上国に出して
メシのタネになる仕事を手元に残すと、
つい油断ができてしまいます。
油断をすると、進歩を忘れてしまいます。
いまの日本の企業には
そうしたやり方の後遺症が出てきているところです。
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