第2377回
はじめた時は永漢国際教室でした
どこの国でも国の方針があるので、
教育については色々ときびしい規制があります。
私が24年ぶりに、亡命先の日本から台湾に帰った時は、
台湾が国連から脱退して世界の孤児になりつつあったので、
先ず第一にやらなければならないことは
民心の安定であり、
そのためには経済を発展させることだと考えました。
そこで工業団地をつくったり、
台北市の中心部にビルを建てることや
大新聞にコラムを書いて
国の経済政策の方向づけをすることからはじめましたが、
それだけでは不充分なので
国際大学を設立するプランをたてました。
しかし、大学の設立に対する規制は意外にきびしく、
先ず校舎を建てるための敷地を手に入れるだけでも
容易なことではありません。
台北市内の家の建つ土地はとても高いし、
農地を買ってもよほどの政治力がない限り、
地目変更は絶望的です。
すったもんだの末に
結局はあきらめるよりほかありませんでした。
仕方がないので、
成人教育から先ずスタートすることにしました。
学校教育はあっても
成人教育には全く手がついていなかったので
日本で言う文化センターのようなものから
スタートすることを思いつき、
場合によっては先生も日本から招び寄せるべく、
永漢国際教室という塾をつくることから出発しました。
台湾では正規の学校としては認可しないが、
補習班と言って日本の塾にあたる
生徒たちの教室と同じ扱いならと言うことになったのです。
しかもどこにつくるかについてもきびしい制限があって、
許可された教室が分校をつくることすら許されませんから、
1校ごとに新しく申請をしなおさなければなりません。
かつて日本語が通用した台湾でも
日本語のできる人がだんだん少なくなっている時だったので、
私は先ず日本語を教える教室をつくることからはじめました。
日本とのコミュニケーションは将来といえども必要だし、
言葉の通ずることが将来ますます必要になる時がくる
と考えたからです。
いまになって見ると、先見の明があったことになります。
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