第1616回
部品メーカーの海外引越しからはじまりました
私は自分の家を建てたら、
そこでジッとしているような人じゃありません。
3年もしないうちに、もじもじして
もう一度、新しい家を建てなおしたり、
少くとも引越しくらいはしていたでしょう。
それがそうならなかったのは、
私の関心が日本国内を離れて
外国に向うようになっていたからです。
もう32年も前のことになりますが、
その前年に国連を追い出された
台湾の国民政府は
それまで国事犯として
私をお尋ね者にしていたのをやめて、
一転して私を台湾に迎えることに方針を転換しました。
Q先生のように国際的に著名な人が
台湾に帰ってきてくれて
投資をしてくれたら、
逃げ腰になった台湾の人心の安定に役立つから
ぜひそうしてくれないかと
東京の私のところへ3回もお使いをよこしたのです。
ほかのことと違って
自分の生まれ故郷のことだし、
共産主義に必ずしも賛成でない人たちが
この世に立錐の余地もないことに
不満を抱いていた私の心に訴えるものがあったので、
私は24年にわたる亡命生活に別れを告げて
生まれ故郷の土を踏む決心をしたのです。
故郷の経済の発展に多少なりと力を貸すことも
心にきめていましたが、
ちょうどその時期は
工業の高度化に成功した日本で
コストインフレが表面化してきた時期でもありました。
完成品の生産基地を海外に移すよりは、
対米輸出をする完成品のパーツを
もっと賃金の安い地域に移すことを
日本のメーカーが眞剣になって
考えるところまで来ていたので、
次は台湾と韓国が
その役割をはたすところに来ていると
私は直感しました。
だから台湾に工業団地をつくったり、
生産工場を海外に移すメーカーの社長さんたちを
大挙して海外視察に連れて行くことに
力を入れたりしましたが、
考えて見ると次の生産基地が
日本から海外に動きはじめる時期にあたっていたのです。
日本国中が引越しをするところまでは
まだ来ていませんでしたが、
私はその匂いを嗅いで、
人より早く浮き足立っていたのです。
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